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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』
福岡市の一家4人殺害事件、犯人(?)の似顔絵が発表されたけど、なんかビートたけしに似てないか(^o^)。
つか、なんで肩揺らして首を曲げて斜めを見てんのよ。そういう仕草してるって情報でもあったのかね?
少女監禁事件でちょっと影が薄くなってた(という見方は不謹慎なんだが、実際マスコミの報道の「量」を考えればそれは事実である)長崎の駿ちゃん誘拐殺人事件、駿ちゃんのお父さんが、昨22日、犯人の少年が事件についてコメントしている言葉を聞いて、激昂していることを発表。
少年が被害者への謝罪の気持ちを表したり、「自首するつもりだった」などと話していることに対して、お父さんは「言い訳としか思えない」と反発しているとか。事件直後、既に「極刑に」と怒りを表明していたから、少年の反省の気持ちなど受け入れられないのは分るが、12歳の少年がたいした罪の意識など持ち得ず、「言い訳」にしか聞こえないコメントしか言えないのも事実だろう。
既に少年が最近書いた作文なんかがあちこちで紹介されてるが、まあマトモに読めるシロモノではない。もっとも、イマドキの中学一年生の文章力なんて、大概あの程度のものであろう。それなりに文章が書ける人間は自分を基準にして判断してしまうから、あの12歳がすごく幼稚で精神的に欠陥があるように思えてしまうが、実際はあの程度のバカガキはそこいらにゴロゴロしてるんである。
まあどんなコメントを口にしてるのかは分らないが、「ぼくはとてもわるいことをしてしまいました。こんなことはもうにどとしたくないです。しゅんくんのおとうさんおかあさんごめんなさい」とかそんなものではなかろうか。多分、誰が見ても誠意だの反省の念だの全く感じられないものじゃないかと思う。
少しずつ少年を取巻く環境や、親の教育の仕方にも異常なところがあったような報道がされつつあるが、さて、それがどれだけ真実に近いものだろうか。既に世論は全ての責任を「親」におっかぶせて、事件の持つ本質的な意味から目を逸らそう逸らそうとしている。犯人の少年だって、そのうち自分には責任がない、「親」がボクを虐待してたんだとかなんとか責任を回避するような「知恵」を学習するのではないか。
これは冗談ではなく、昨日読んだ『フロイト先生のウソ』に、残虐な行為に走った子に過去にトラウマがなかったかどうかほ「誘導」すると、一様にありもしなかった「虐待」の事実を思い出す、という例が報告されているのである。それくらい12歳(実はオトナも)の記憶力や認識能力などはアテにならない。
12歳の心の闇を探る、と言っても、現実にはブラウン運動を予測するようなものだ。将来的に彼が心の底から罪を悔いる気にならないとまでは断定しないが、たとえどんなに心の底からの贖罪の言葉を彼が口にする日が来たとしても、駿くんのご両親の気持ちが晴れることなどあるまい。
「更生の可能性があるなら」、年齢に関わらず、加害者にはその機会が与えられなければならない。これはもう法治国家の義務みたいなものだ。で、「更生の可能性がない」などと断定することなど、簡単にできるはずがないことは納得せざるを得ないだろう。その理念のもとに立っていれば、法的判断が加害者の人権を最大限保護する方向に動くことは当然のことなのである。
つまりあの12歳を処断するためには、彼が「全く更生の可能性がない」ことを「事実に反してでも」証明しなければならない。世論は今、「そういう方向に」動こうとしている。それがどれだけ危険なことか、お分りいただけようか。
私はもう、発想を変えて、「加害者に更生する可能性があっても極刑に処す」法理論を確立しなきゃならんのじゃないかと思っている。「この先何十年も更生と反省の日々を送らせるのはつらかろうから、早いとこ死なせてあげようよ」というリクツである。乱暴だというご意見もあろうが、だったら、駿くんのお父さんの「極刑に」発言はもっと乱暴であろう。被害者の親であることが意見の正当性を保証するものではないのである。
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07月23日(水)
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