ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491684hit]
■「心ある」ということ/『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(相田裕)ほか
「WEBアニメスタイル」に、11日付で、「クオリティは誰のため」と題して、小黒裕一郎さんの以下のエッセイが掲載されている。
> 先日、知人の脚本家に「TVアニメの数は増えた増えたと言われるけれど、不思議とクオリティは落ちないな。むしろ上がっているんじゃないか。どうしてだ?」と訊かれた。言われてみれば不思議な話で、確かに10年前、20年前のアニメと比べれば、画が綺麗になってきている気はする。どこの現場も人手が足りないと言っているのにクオリティは上がっているのか。一瞬、僕も納得してしまったけれど、実はそうではない。アニメーションとして全体のクオリティが上がったわけではないのだよね。正確には、キャラクターの画が整うようになったのである。昔は各話毎にキャラクターの画が違うのが当たり前だったけれど、最近はそういったバラツキが減っている。話の中でも担当アニメーターによる、作画の凸凹が無くなってきているはずだ。全体にキャラクターの画が統一されているので、クオリティが上がったように見える。
で、キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっているというわけだ。最近、TVアニメで「おっ」と驚く作画や表現を目にする事が減ったのは、そのためでもあるのだろう。芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている現場も多いのではないか。余計な事をやっているヒマはないよ、てな感じなのだろう。いや、勿論、それは全然余計な事ではないのだ(厳密に言うと、キャラクターの画以外の部分が弱くなっている理由はそれだけではない。表現の画一化等の理由もあるのだが、それはまた別の話題)。
各話のキャラクターを統一させる、という事はビデオメーカーが制作現場に望んでいる事でもある。前に制作会社のPDから、ビデオメーカーが各話の画の統一をするように言われて、それができるシフト(総作画監督が全話全カットのレイアウトに手を入れる等)を組んでいるという話を聞いた。それが商品としてのセールスポイントなのだ。ビデオメーカーでもユーザーでも「クオリティ=キャラクターの画の統一」と思っている人が多いのだろう。
この傾向が続くのが厭だと思う、心あるアニメファンは「それだけじゃつまらないぞ」と声を大にして主張するべきだ。
こういう作品批判を含むエッセイの場合、プロである小黒さんの、これからもそれらの作品に関わるスタッフと付き合っていかねばならない立場を考えれば、具体的な作品名を出せない事情もわかりはするのだが、その分、批評性は薄まってしまう。
全てのテレビアニメ作品が「キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっている」のではない以上(例えば『プリンセスチュチュ』で毎回猫先生の身もだえの表現を変えて作画し続けたスタッフの努力とか)、「弱い」作品のいくつかを挙げた方がいいに決まっている。
「心あるアニメファンは」という呼びかけ方はなんだか「オタクエリート主義」を彷彿とさせてちょっと乗りにくいのだが(もうオタクをエキスパートのように語って地位向上を図るのもかえってオタクのためになるまい)、単純に「そんなアニメじゃDVDになっても買わねえぞ」と文句つけるくらいのことは、ファンなら「自由に」語っていいのではないか。
私も最近はあまりテレビアニメをチェックできていないのだが、例として『明日のナージャ』のデザイン、表情のつけ方が「どれみもどき」になっているのが気になった。細田守演出以外の回は「芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている」と言われても仕方がないような回も散見する。CG、デジタル処理を施すなら、単に画面奥への動きを表すのにラクだから使ってる、と感じさせるような表現は避けてほしい、とも思う。
『アトム』はキャラクターの表情や演技には毎回感心させられるのだが、シバリがあるせいか脚本に一つ芯が通っていない。なにもアニメ後進国のアメリカに迎合しなくてもいいと思うんだが。『デジキャラット』に至っては論外である。
[5]続きを読む
07月14日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る