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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■東京始末&ニュースの森(^^)/舞台『奇跡の人』
3月2日の日記の続き。
シアターコクーン、初日だけあって、大混雑、花輪の類も目新しい。
まずはパンフレットを買って、パラパラとめくる。大竹しのぶの公演記録が載っているのを見て、こうたろう君が、「あれ? 大竹しのぶ、ヘレン・ケラー演じたことなかったっけ?」と首を捻る。
実は大竹しのぶ、『奇跡の人』でヘレンを演じたことはない。『ガラスの仮面』での劇中劇でヘレンを演じているのだ。でも、デビュー当時の『青春の門』や『事件』のころの大竹しのぶの演じるヘレンを見てみたかったなあ、と真剣に思う。それはパティ・デュークを越えていた可能性があるのだから。
座席に着くなり、こうたろう君、「さあ、オレの鈴木杏はがんばってるかな」とかなんとか、世迷言をほざく。いったいいつから私の鈴木杏がこうたろう君のモノになったというのか。勘違いも甚だしいのである。
舞台『奇跡の人』。
『ガラスの仮面』で有名な、って言ったら、20年前なら「ふざけんな」と演劇関係者からドヤしつけられても仕方がなかったんだけれど、今やそっちのほうが通りがよくなってないかな。
でもやっぱり私は「三重苦から立ち直ったヘレン・ケラーと、その先生のサリバンさんの実話だよ」と、フツーの説明がしたい。何たって、私が子供のころ、ヘレン・ケラーはまだ生きてたんだから。歴史上の人ではなく、今を生きる偉人だったのである。
これは、そのヘレン・ケラーがサリバン先生との「戦い」の末に「言葉」を手に入れるまでを描いたウィリアム・ギブソン作の戯曲であり、アーサー・ペン監督によって、舞台化・映画化もされた文句なしの傑作である。
舞台・映画の両方で主演・助演したサリバン先生役のアン・バンクロフトと、ヘレン役のパティ・デュークは揃ってアカデミー賞を受賞した。
これだけの名作だと、そんじょそこらの役者ではとても勤まるものではない。冗談ではなく、サリバン先生とヘレンの戦いは真剣勝負となる。これまでサリバン先生はずっと大竹しのぶが演じていたが、ヘレンの役はその都度変わっている。1986年・安孫子里香、1987年・荻野目慶子、1992年・中嶋朋子、1998年・寺島しのぶ、2000年・菅野美穂、そして今回の鈴木杏である。
これまでの『奇跡の人』は一本も見ていない。ずっと福岡にいたんだから仕方ないのだが、記録を見ると、98年版は福岡にも来てたのである(気がつかんかったなあ)。
評判を聞く限り、大竹しのぶのサリバン先生は絶賛の嵐であった。「ともかく一度は生で見ねば」。これはここ10年ほどの私の強い思いであったが、菅野美穂の時には上京する気が今一つ起きなかった。菅野美穂がいい役者だということは分る。けれど、ああいう「入り込む」タイプの役者がどういう演技をするかはだいたい見当がつくのだ。大竹しのぶも「入りこむ」タイプではあるが、あの人はそれでいて自分を突き放して見ているところがある。「入りこむ」人は、そこで満足して、それ以上の輝きを見せられぬままに終わることも多い。「自分が観客の眼にどう映るか」。それが計算できないといけないのだ。それを捉えることが鈴木杏にはできるのではないか、『六番目の小夜子』『ジュブナイル』『リターナー』の鈴木杏になら。そう直観したのである。
結論を言えば、私は大竹しのぶにはもちろんのこと、鈴木杏にも充分以上に満足した。ヘレンを演じる上で、何が一番重要か。三重苦の彼女が傍若無人に振舞うための武器は、嗅覚、触覚、そして「慣れ」である。
鈴木杏は、ちゃんと、人形にはそれを突きつけられるまで反応せず、食料には鼻を突き上げて反応した。部屋の中を移動するときには、テーブルの縁を腰で辿りながら自然に動いた。広いところに出ればしゃがんで床を頼りにした。三重苦だからといって、そこはもう何年も住みなれた我が家なのである。不必要に手探りをするとかえって不自然になる。ヘレンは「自分がどう動くか」を知っていなければおかしいのだ。
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03月03日(月)
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