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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■鮎川哲也、死去/『手塚治虫の奇妙な資料』(野口文雄)ほか
 エロメールがやたら送られてくるとこないだ慨嘆したばっかりだが、また来た。
 「素敵な男性と朝まで二人・・・
  素敵な男性を今すぐ貴女の元へ向かわせます
  全国ネットワークですぐに紹介
  若い女性も遠慮しないで遊びまくろう!
  1回限り、長期、何でもあり。」
 オレは男だっ!凸(`△´+)
 ……って指立てちゃマズイな(-_-;)。


 柳美里氏のデビュー小説『石に泳ぐ魚』の出版差し止め訴訟で、彼女の敗訴が確定した。これでこの作品の出版差し止めが決定、どうしても読みたいと思ったら、『新潮』1994年9月号を探してみるしかなくなった、ということになる。
 「表現の自由か、個人のプライバシーか」という問題は、個々の作品の性格を考えてみなければ簡単に結論は出せないことである。
 となれば、当該作を未読の私はそもそも何かを言える立場にはない。けれどことは在日韓国人の、しかも身体障碍者に関する問題である。私の職業をご存知の方なら、この件について私が何か語るべき立場にあることを首肯していただけると思う(まあ、この日記はその立場を捨てて書いてるわけだから、ちょっと今回は卑怯なんだけど)。
 あえて憶測だけでものを言わせてもらうと、原告の女性の主張である「無断で小説化されてプライバシーや名誉を侵害され、精神的苦痛を受けた」という主張を全面的に信じるならば、「じゃあ、事前に『こういうの書くけどいい?』って作者が確認しとけばよかったんじゃん」でケリがついてしまう問題のような気がする。柳氏と原告は友人だったそうだから、この「無断で」というところで原告は「裏切られた」という思いを持ったのだろう。
 では、どうして柳氏は無断で小説を書いたのか、というその理由が、新聞の記事だけでは判然としない。だからこれも憶測でものを言うしかないのだが、柳氏はもともと、小説を書く場合、そのモデルたる人物に了承を取る必要はない、という判断を持っていたのではないか、ということだ。
 基本的にこの考え方は間違ってはいない。
 相手が人間であれ、あるいは国、地域、施設の場合であっても、いちいち対象となるものに許可を得なければならないとすれば、小説を書くこと自体、できなくなってしまう。小説に「新宿は魔界と化していた」と書いたら、それだけで新宿区からのクレームを気にしなければならないのか。そんなことになったら菊地秀行も訴えられてしまうことになる(でも冗談でなくその可能性はあるんだよね)。
 プライバシー、という問題に関して言うのならば、描かれた対象が著しく損害を与えられた、と証明されない限り、批判は受け入れられるべきだ。例えば、役者がその私生活をフォーカスされたことに対して訴えるのは是だが、演技についてボロクソに批評されて「おかげで次の仕事がなくなった、損害賠償しろ」というのは非である。そもそもそんなふうに批評される演技をした本人に責任がある問題ではないか。
 しかし、今回の件では、原告は完全な私人である。その点を考えるならば、柳氏のほうが明らかに分が悪い。『仮面の国』で小林よしのりを「常識知らず」と罵った柳氏が、なぜ事前にモデルの件について当人に相談する、というごく当たり前な世間知を持ち得なかったのか。やはりなんだかこちらには分らない事情がありそうで、結論が出た問題にもかかわらず、なんだか釈然としない部分を残しているのである。
 腑に落ちない、と言えば、原告も結局はわが身のことしか考えてなかったのではないか、という疑問が残る。小説の内容は、柳氏の主張を信じるならば、障碍を乗り越えて生きる女性の力強い姿を描いたものだそうだ。ならば、その出版は、同様の障碍を持つ人々に対して、勇気を与えるものとして、原告は喜んでもよかったのではないか。裁判に訴えたことで、「障碍者を題材に書くと、たとえ書き手の方は障碍者のためのつもりであっても、何かクレームをつけられることはままある。ならもう一切触れないでおこう」なんて意識が世間に植えつけられたら、結果的に「囲い込まれて」損をするのは自分のほうではないのか。
 部落解放運動の過激な糾弾行動が、逆差別を生んだ実態を考えてみればいい。

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09月26日(木)
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