ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491726hit]

■オタクによるオタク否定/アニメ『ヒカルの碁』第二十七局/『学校って、なんだろう』(産経新聞)
 今日もまた雨。
 またぞろ「春は長雨」ってセリフが頭に浮かぶが、考えてみたらイマドキの若い子は、大島弓子の『綿の国星』の存在自体、知らなかったりするんである。
 この日記にも、オタク的な知識だのが余り説明もないままに、ポン、と提示されること、よくやってるんだけど、本来なら、それがどういうものか解説をつけるべきかもしれない。田中康夫か(←昔、『なんとなくクリスタル』って小説書いて、当時のトレンディな用語にいちいち解説を自分でつけてたんだよー。ってな具合に解説がいるかなってことです)。
 けど、そんなのいちいちやってたら、書く方もツライか読んでる方もツライだろう。しようがないんで解説は必要最低限に留めるように心がけ、できるだけ脚注のような形はとらず、文脈で内容が推し量れるよう、務めてきたつもりだった。

 けど、世代格差ってのは私が想像している以上に大きい。
 私たちの世代にとっては「常識」なモノが、ちょっと下の世代にとっては「存在すら知らない」ということが現にあるのだ。

 先日も、ある濃いオタクな人と話をしていて、その人が「高野文子」を知らなくて仰天したことがある。
 彼女の絵柄をご存知ない方は、北村薫ミステリーの表紙絵を数多く書かれている方だと言えばおわかりいただけようか。私はあの絵がほしくて、北村薫の本を集めまくった時期があるくらい、ファンだった(中は殆ど読んでない)。
 80年代のコミックシーンを語る上で、彼女を避けて通るわけにはいくまい。単行本『絶対安全剃刀』中の「田辺の鶴」は、ある意味『綿の国星』以上の衝撃を与えてくれたと言っても過言ではない。老人が老人として登場せず、その精神性ゆえに童形に描かれる、というのは当時のコミックファンにはとてつもないショックだった。
 先年公開された映画『金髪の草原』の大島弓子の原作も、この「田辺の鶴」の影響下にある。単に抜群の画力を誇るだけでなく、マンガ表現のスタイルを革新させた功績のある方なのだ。
 その、オタクの人は、私より5、6歳年下なだけである。
 にもかかわらず、ある意味大友克洋以上にその登場がショッキングだったと言ってもいい高野文子の存在を、全く認識していなかったのだ。そのこと自体が私には大ショックだった。
 確かに超寡作な方で、これまでに出版された単行本も『おともだち』『ラッキーお嬢さんの新しい仕事』『るきさん』など数えるほどしかない。しかし、寡作だからといって、その存在が無視されてはならない人、というのが確実にいる。つげ義春を想起していただければ、私の言いたいことにご賛同頂ける方も多いと思う。

 つまりは、マンガの世界も既に一オタクがフォローできないほどに拡散してしまっている、ということなのである。黒澤明もスタンリー・キューブリックも見たことがない自称「映画ファン」が存在するように、全てのマンガに通暁しているオタク、などというものは存在しないのだ。
 実は私は、以前からオタク度を「濃い」「薄い」で表現することになんとなく違和感のようなものを感じていたのだが、それは「濃いオタクってどの程度なのよ?」ということだったのではないか。
 先日見ていた『BSマンガ夜話』で、「日本のマンガってどんなの? って聞かれたら、とりあえず手塚治虫を見せておけばいい」という発言があったのを見て、あそこに出ているマンガに一家言ある方々でも、その程度の狭い認識しか持っていなかったのか、とショックを受けた。
 手塚治虫の功績を認めるのに吝かではないが、マンガ好きがマンガの世界を一作家のそれの中に押しこめるような狭い捉え方をしてもいいものなのかどうか。

 『クレヨンしんちゃん』がメジャーでない、という人は誰もいないだろう。
 しかし、非常に濃いオタク、と私が思っていた人たちでも、「映画の『しんちゃん』は凄いよ!」と、この十年、何度となく語り続けたけれど、全くと言っていいほど耳を傾けてくれなかった。
 その意味で言えば、彼ら彼女らが「私、オタクじゃないから」と謙遜するのは謙遜ではないのだろう。

[5]続きを読む

04月17日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る