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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ほーりつも人が作るもの/映画『まあだだよ』/『仄暗い水の底から』(鈴木光司・MEIMU)ほか
あっ。今日から三連休か。
っても、明日休日出勤があるんで全然そんな印象がなかった。
三日休みがあって、最初か最後の一日が休みならまだ連休なのになあ、と一瞬思う。
でも、一日休めて仕事の準備を整えて、仕事が終わればまた休める、と考えれば、合間の仕事もまたヨシ……なわけないじゃん。
CSチャンネルNECOで映画『まあだだよ』を見る。
もちろん、黒澤明監督の遺作で、公開当時は劇場まで足を運んだのだが、改めて見返してみると、日常ドラマにもかかわらずセリフ回しが妙に時代がかっている。
特に香川京子のセリフの発声、どちらかというと舞台的でリアリティが感じられない。しばらくテレビにも映画にも出てなかったから、自然な喋りができなくなっちゃったのか? なんで注意しなかったかな、黒澤明。松村達雄の方は徹底的にしごいたくせに。
……と考えて、ハッと気がついた。
いや、この映画、確かに内田百フをモデルにしてはいるが、彼の「伝記映画」を作るつもりなど黒澤明にはなかったのではないだろうか?
『どですかでん』以降の黒澤作品に、今一つリアリティが感じられなくなっている理由の一つには、色調の問題もある。
長年の撮影・編集生活ですっかり目をやられていた黒澤明には、「自然な色」をフィルムに再現することが不可能だった。
だから逆に毒々しい色を塗りたくるように映像を作り、それが必ずしも日常のリアルを必要としなかった『乱』や『夢』ではプラスに作用した。日常描写が中心になっているために錯覚してしまうが、それと同じ感覚でこの『まあだだよ』も作られているのではないだろうか。
『まあだだよ』の色調は『夢』などに比べると抑えられているが、かといって「リアルな」色調にはなっていない。霞んでいながらどこか明るい。部分的にその「色」が突出して現れるところもある。さながら『天国と地獄』の煙だけがカラーであったように、「突出」している。
それは例えば、愛猫・ノラをなくして憔悴した百フ先生の隈取をしたような顔(いや、ホントにしてんだけども)に現われている。普通の監督なら、あんな非現実的なメイクはしない。しかし、黒澤明は先生の悲しみを表すのに演技だけでは足りないと考えたのだ。あの隈取は、百フ先生の最後の「感情」であり、その後、逆に百フ先生はどんどん「白く」なっていく。
もちろんその「白」のイメージは、感情を殺ぎ落としていった果てにある「仙人」のそれであろう。
その意味で、晩年の黒澤明の演出スタイルは、ファンタジーに近いものになっていたと考えるべきだろう。
『まあだだよ』のファンタジー性を評するのに、ラストの夕焼け空を挙げる評論家は多いけれども、その少し前のシーンで、実はその「前フリ」のような奇妙なシーンが登場している。
それはもちろん「まあだ会」の一同が会する「祝祭」的な空間である。
集まった人々がただひたすら百フ先生を祝福するだけの、奇妙キテレツなシーン。そこに「誉められたい」黒澤明像を見出すのはやや浅薄な見方だ。
あれは、『どん底』の馬鹿囃子の反転であるし、『赤ひげ』における「歓喜の歌」でもある。また、『七人の侍』のラストの田植え歌でもある。『夢』のラストシーンの村祭が一番近いかもしれないが、要するにミュージカルのラストナンバーなのだ。
物語は、すべて最後の「祭」によってコトホギ、カムアガリさせられる。
映画自体を「祝祭」と見る黒澤明の思想がどんどん純化されて行った果てにあったのがあの「まあだ会」のシークエンスなのだ。
だとすれば、その前哨として歌われる『大黒様』のリフレインに、黒澤明が何らかの意味をこめないでいられるだろうか。
「大黒さまは誰だろう。それは君たちだ」
ノラを懸命に探してくれた弟子たちに、先生はそう言う。
しかし、「大黒様」とはいったい本当は誰だったのか?
以下に、『大黒様』の歌詞を引用する(多分もう著作権切れてるよな)。
一 大きなふくろを かたにかけ
だいこくさまが きかかると
ここにいなばの しろうさぎ
かわをむかれて あかはだか
二 だいこくさまは あわれがり
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02月09日(土)
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