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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■原作と映画の間/映画『走れメロス』/『朱色の研究 夕陽丘殺人事件』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか
 成人の日。
 ああ、三連休というのはありがたいなあ。自分のペースでやりたいことがやれるし。っつーかたいてい本読んだりDVD見たりなんだけど。
 三日も休みがあると何をしていいか分らない症候群じゃないもんね、私は。


 昨日録画しといたCSチャンネルNECO『走れメロス』をしげと見る。

 『走れメロス』の映像化は、恐らく腐るほどあると思われるが、そのほとんどが世に知られてはいまい。
 それはたいていが、NHK教育とかの子供番組でのダイジェストものだったりするからだ。
 では、本格的な映画化作品はあるのかと言われると、これが意外にもほとんどない。理由はおそらく単純に、「舞台がギリシャである」ため、日本人キャストでは映画化が無理だったせいだろう。
 しかし私は、それ以外にも、「超有名な小説が意外にも映画化されにくい」理由があるのではないかと思う。そのことをちょっと考えてみたい。

 それは要するに「手垢がつきすぎている」ということだろう。
 映画化しても新鮮さに欠けるのである。集客力につながるものとはちょっと考えにくい。
 更に言えば、「教科書に載るような作品は所詮、教条主義的な作品に過ぎない」。既成の概念の破壊と再編成が芸術の価値であるとすれば、『メロス』くらい魅力のない作品はないのだ。友情の物語など、描かれつくされ、語られつくされている。仮にそういうものを描きたいからと言って、その典拠を『メロス』に求める必要など全くないのだ。
 実際、この映画が製作された1992年、「なぜ、今どき『メロス』?」と、考えた人は多かったのではないか。
 太宰作品に限らない。過去の作品を今に蘇えらせようとするには、そこに明確なモチベーションが必要となる。芥川龍之介の諸作だって、黒澤明の『羅生門』(原作は『藪の中』)、豊田四郎の『地獄変』が知られているくらいのものだ。ほんの百年も経っていないような時期の小説ですら、現代での映画化は容易ではない。果たして『メロス』の映画化に、我々はどのような意味を見出せばいいのだろうか。

 では、『走れメロス』の映画が今までに全くなかったかというと実はある。
 しかも全て日本人キャストで。
 ならば舞台が日本なのかというとそうではなく、中近東の某国に移し替えられているのである。
 タイトルは『奇巌城の冒険』。
 主演、メロスにあたる「大角」に三船敏郎(……え?)。
 セリヌンティウス「円済」に中丸忠雄。王役は三橋達也。
 製作は東宝=三船プロ。つまりこれは、『大盗賊』で呂宋助左衛門に扮した三船が姉妹編として作った「冒険もの」なのである。
 三船とメロス。このミスマッチ感覚が実に楽しい映画であった。
 でもまあ、それは余談。

 しかし、今回の映画を見ていて、私は唖然とした。
 先にハッキリ言ってしまうが、これは太宰治の『走れメロス』とは全くの別物である。その精神においては真逆とすら言えるものだ。
 言うまでもなく、この『走れメロス』はアニメーションである。絵で描ける以上、原作通りの世界観を展開させることは不可能ではなかったはずだ。
 メロスに山寺宏一、セリネ(セリヌンティウス)に小川真司、ディオニシウス2世(この名は原作には出て来ない。史実に合わせた改変である)に故・小林昭二。
 なんともはやシブ過ぎるキャスティングである(もっともこれじゃウリがないと製作者が思ったのかどうか、女性陣には水沢アキや中森明菜を並べている)。
 こう芸達者が揃っているなら、やはり物語を原作に忠実に描いたとしても、ありきたりな印象にはならずにすんだと思う。
 しかし、監督のおおすみ正秋(あの『ムーミン』や『(旧)ルパン三世』の監督だ)は、全てにおいて原作とは正反対の解釈で物語を作っていたのだ。

 まず、メロスとセリネは竹馬の友ではない。
 これだけでも大胆な脚色なんだが、問題はその後だ。
 シラクサの町で初めて出会った二人、旅人のメロスと彫刻家のセリヌンティウス。気があったその日から二人は親友になる。

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01月14日(月)
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