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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■笑いの王国/『かめくん』(北野勇作)ほか
今日も女房はずっと寝ている。昼夜逆転してるだけでなく、確実に一日12時間は寝ている。
いいなあ。
でも私も実は具合が悪くて仕事を休んで寝ていたのだ。すると、珍しくも久しぶりに夢に女房が出てきた。私はめったに女房の夢なんか見ないのだが、何を急にトチ狂ってしまったのだろうか。
ところがこの夢、夢のクセに何の飛躍もないのである。ただただ女房とのごく普通の日常が続くばかり。退屈した私が冒険でもしようと思い立つのだが、どう冒険していいのかも分らない。「夢の中でもおまえとだとロマンの一つも思いつかんのだなあ」とタメイキをついた途端、目が覚めた。
……うーん、以前から女房との二人芝居がやれたらなあと思ってたんだが、深層意識は既に「それは無理」と答えを出しているのだろうか(^_^;)。
パソコンにしがみついて、劇団のホームページの方の日記を懸命にこちらにコピーする作業。
12月から11月と遡っていきながら、自分の過去の文章を読み返していくが、昔のことってホントに忘れているものである。備忘録のつもりもあって書いてきたが、こりゃマジで役に立つわ。
単にこういう事実があった、ということだけではない、当時の感情が、多少の誇張があるとはいえ、文章からにじみ出ているのである。しかし、俺って、ウケねらいとは言え、ここまでぐーたらに自分のこと書かなくてもいいんじゃないかという気がしてくるなあ。でも真実を書くと、はっきり言ってシャレにならんのだ。
感動させる文章、泣かせる文章、そういうものは実は意外と簡単に書ける。ただ、笑わせることはやはり至難のワザだ。これは意外と気づかれていないことだが、「泣き」のためのマニュアルは日本人は共通して持っているが、「笑い」については、そのフォーマット自体、実はまだ確立していないからだ。
こう言いかえればわかりやすい。ある対象に対して「泣く」ことについてはタブーが殆ど存在しないが、「笑う」ことについてはそれが存在しているのだ。
事故現場や葬式の最中に「笑う」ことはタブーだが、お笑い番組を見ながら泣いたって、そりゃ感覚が違うだけだろう、泣く人もいるさ、で済まされる問題である。タブーがないだけに、人は泣かそうと思えば泣かせやすいのである。
なぜ「笑い」についてだけタブーがあるのか? 「泣き」と「笑い」がなぜ対照語として対置されているのか?
「泣き」が基本的に対象とのシンパシーを築こうとする感覚であるのに対し、「笑い」は対象を拒絶し差別化することで成り立つ感覚である。当然、対象からの「反逆」が有り得るのは後者だけだ。「笑い」が人々の間に共通感覚として受け入れられるためには、その笑われる対象が明確に「差別されている」にもかかわらず、「これくらい別にいいじゃん」と考える人間の方が多いことが大切なのである。
政治家が「笑われる」対象として選ばれやすいのは、世間のみんなが彼らが「権力者」であることを知っており、その権威を引き摺り下ろしたい衝動を我々が共通して持っているからにほかならない。
だから、「弱者」に向けられる「笑い」はしばしばタブーとなる。それは多数の人々の共感を得られないからだ。
「日記」を読み返して自分でもビックリしたのは、私のからかいの対象が見事なくらい「強者」にしか向けられていない点だ。これはかえって、嫌味ですらある。実のところ世の中の出来事や人々は簡単に「強者」と「弱者」に分別できるものでもない。複雑な状況を解き明かすわけでもなく、世間一般の常識に基いて「強弱」を規定した上に行われる「笑い」は実は大した批評性を持っていない。
……なんかそんなコムズカシイことまで、自分の日記を読み返しながら私は思っていたのである。大げさなこっちゃ。
本棚をあさってみると、女房が読んだあと適当に突っ込んだままで、私がまだ読んでなかったマンガの類がゴッソリ出て来る。(その感想は明日書こう。今日はもう眠い)
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