ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491657hit]

■特に悲しくはない死/『轟轟戦隊ボウケンジャー』最終回/マンガ『観用少女 ―明珠―』(川原由美子)ほか
 私には、少女マンガで最も美しい絵を描くのは川原由美子である、と感じていた時期があって――(苦笑)。
 それがこの作品が発表されていた90年代前半であったので、つまりは私もプランツ・ドールの妖しい魅力にすっかり虜にされていた、ということなので、もしも本当にプランツ・ドールが売り出されていて、少しでも私に微笑みかけてくれたなら、子孫までのローンを組んででも、購入していたかもしれない(実際には結婚後のことなので買うに買えなかっただろう……って、妻の方に微笑んでいたらどうするのだ)。

 ヒトガタをしていて生きてはいても、人間ではない――。プランツ・ドールのその設定に、初めは随分と悪魔的なアイデアを思い付くものだと感心と同時に畏怖も感じた、というのが初読のころの印象である。
 生きていてヒトガタをしていて、しかも教育次第で感情表現もできるようになり喋れもする、大人の女にもなれる、となればこれはもう人間に他ならない。「ドール」などとはうっかり枯らしてしまった(殺してしまった)罪の意識から逃げるための欺瞞ではないか、ドールが往々にして「姫」と呼称されるように、これは自己の「姫に奉仕したい」というマゾヒズムを充足させるための物語なのではないか。そんなことを当時は考えていたのである。
 プランツ・ドールは決して安い買い物ではない。しかも充分に栄養と愛情を与えたとしても、必ずしも自分の思い通りの微笑みを返してくれるとは限らない。愛情を注いだ分、自分に微笑み以上の何かを帰してくれるわけでもないのである。ペットに限りなく近いが、ペットではないのは、やはりそれが少女の形態を取っているからで――。まさしく王女に恋をしつつその王女に触れることもできない従者のごとく、男は満たされない自己の欲求を抱えながら、それでいて少女から離れることができない――。これがマゾの物語でなくて何なのか、こんなものを楽しんで読んでいる私もまた精神的マゾヒストなのかもしれない、と、自分に畏怖を覚えたというのは、そういう意味なのである。

 それから10年以上も経っているので、私ももう、プランツを衝動買いしてしまうような無分別ではなくなっていると思うが(笑)、世間的には「プランツを欲する潜在的な欲求」はむしろ高まっているように思えて、別の意味での畏怖は感じざるをえない。
 プランツ・ドールとの交情はやはりいびつである。「予め微笑むだけの姫」を求める心理というのは、一見、相手を自由にさせているように見えるがそうではない。逆に「微笑む以外のことを求めない」不自由の檻の中に閉じ込めていることである。プランツ・ドールに羽が生えることを、涙を流すことを望む客はいるだろう、しかし、大人になって自立し、自分の力で働いて新しい家庭を持ち、子を育む客はいない。いかに姫に奉仕しているように見えても、やはり主人は購入者であり、プランツは「飼われている」のである。もちろんそのことに不満を抱くプランツもいないわけで、これもまたある特殊な趣味の男の欲求に答えただけの存在であり――。
 そして生身の女性にもプランツ的要素を求める男たちが現実に存在していることを思えば――。
 やはり10年まえより男たちは病んできていると思わないではいられないのである。


 夕方から、父と待ち合わせて天神へ。
 車上で、大叔母が先月亡くなったことを聞かされる。生前、習い事だの遊び事でしこたま借金をこさえ、母にもしばしば借金を頼んでは踏み倒し、母の死後はお定まりのように街金から返せもしない金を借りまくってローン地獄、結局自己破産してしまい、それでも借金して遊んでの生活は改まらなかったという、私の知る限りでもかなりろくでもない部類に属する人間だったが、父も結局は葬式には参列しなかったそうである。
 大叔母の死を知らせてくれたのはやはり借金まみれの大叔父からだったということである。
 「縁を切っとるから、知らせてくれんでもよかったとばってん」
と父は言っていたが、確かに母の死後、いったん縁を切ってはいたが、数年して  「いつまでも昔のしこりを残してもいかんな」と言って、再びやりとりはしていたのである。父も脳梗塞以来、記憶がますます怪しい。

[5]続きを読む

02月11日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る