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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■『のだめ』エランドール賞/『裁判狂時代』(阿曽山大噴火)/『シャアへの鎮魂歌』(池田秀一)
そういったアニメファンの「ピュアさ」に対して、著者が気遣っているような描写も本書には散見する。いささか苦笑してしまったのは、「シャアのイメージを崩してはいけない」ために、できるだけファンの前に姿を見せない、どうしてもファンの前に立たなければいけないときには「自分がシャアであること」を意識して、サインなどもしない、といった態度を取る、という件だ。
いやまあ、確かに二次元キャラクターと実際の声優との間にイメージのギャップがあることはままあることではあるけれども、そこでファンが「幻滅」してしまうのは、声優本人に責任があることではなく、ファンの幼児性の方に問題があるのではないか。それに池田さんはそこまで気を遣わなければならないほどに外見上、シャアのイメージを崩してしまうような人ではないと思うのだけれど。
声優さんも大変だ(苦笑)。
当たり前の話であるが、役者がそのキャラクターを演じるときには、その役になりきるべく、最大の努力をする。池田さんもやはり『ガンダム』の第一シリーズでシャアその人にならんと一つ一つのセリフに心を込めている。
セリフとは物語の登場人物間の「関係性」によって成り立つものであるから、そこを捉え間違えると、画面とセリフとの間に乖離が起きてしまう。たとえば、「友達の会話に聞こえない」「兄弟の会話に聞こえない」という事態が生じてしまうわけだ。案外そのことを考えていない役者はいるもので、そこが演技というものの難しいところだ。
その「関係性」のことを池田さんは「温度の違うキャラクターの対比」と表現している。
例えば、第12話『ジオンの脅威』で、左遷されたシャアがとあるパブで酒を飲んでいるシーンがある。男が一人、シャアに近づいてきて酒を奢ろうとするときの、お馴染みのあの会話だが、池田さんは「シャアは相手の放つ『匂い(雰囲気)』だけで相手をジオンの間諜だと見破ります。この会話のみで、シャアと相手の立ち位置が逆転し、シャアは優位に立ちます」と分析する。
実際、相手の男は、最初は「それは私に奢らせてもらおう、いいかね?」とやや高圧的だったのが、シャアに正体を見破られた途端に、「さすがですな、少佐」と口調もですます体に、シャアを敬服していることが明らかな態度に変わっているのだ。
これだけの分析をしているから、シャアというキャラクターに対しての池田さんの思い入れには説得力が生まれる。『Zガンダム』以降のシャアに対して、「シャアってこんなに子供だったのか?」と違和感を覚えたというのは、当時のファンもまた同様だったと思う。
20年ぶりに『Z』の劇場版が作られ、シャアが「大人のキャラクター」としてリライトされるに及んで、ようやく池田さんの心から「シコリが取れた」というのは、演技というものの本質を考える上で極めて重要なことだと思う。
劇場版リメイクにあたって、このあたりの分析をきちんと行った批評を雑誌でもウェブでもついぞ見かけなかったが、出演者に説明してもらって、「ああそうか」とうなづくというのは、ファンとして忸怩たるものを感じないではいられない。
シャアのセリフの分析は、本書の随所に、終章に至るまで挿入されている。イントーネーション、言葉の区切り方次第でキャラクターの心情がどのように変化するかを、具体例を挙げて示しながら、池田さんは声優の演技について以下のように総括する。
「役作りをしながら状況に合わせてセリフを言うことって、実は非常に難しいことなんですが、僕はそのセリフと芝居を音符だと捉えています」
「僕たちは声の芝居を受け持つのですから、僕たちがもう少しキャラクターを深く捉えることによって、そのキャラクターが正義の味方だろうが悪役だろうが、ファンから支持を受けるキャラクターへと成長する可能性があるのであれば、僕たち声優は芝居というものを真摯に受け止めるのが正しい姿勢でしょう」
本書を声優のアイドル人気に乗っかったキワモノ本だと思って油断していた人がいたら、これらの言葉に刮目していただきたいところである。
本書には声優同士のあたたかい交情なども描かれている。
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02月10日(土)
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