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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■「懐かしい」だけでも泣けるけど/映画『銀色の髪のアギト』&『ALWAYS 三丁目の夕日』
 『ALWAYS』には、昭和33年を象徴するものが画面中には「うるさいくらいに」現れる。それこそ役者が演技をしている後ろの通りを、「意味もなく」行商人が歩いていたりする。しかし、いくら地域共同体がまだ機能していた時代だからと言って、表通りじゃあるまいし、そんなにしょっちゅう、路地に人通りがあるというのはかえって不自然である。初めて家にやってきた白黒テレビに近所中の人々があれほどに群がるというのも、全くないとは言わないが、かなり特殊な例ではあるまいか。なぜなら、そういう「人が集まる近所の社交場」は、個人の家よりも「床屋」や「市場の縁台」などのような場所の方が自然だったからである。更に言うなら、昭和33年はいわゆる皇太子ご成婚の「ミッチーブーム」が巻き起こった年であるから、年末ごろにはちょっとした家庭であればもう充分にテレビは普及していたはずである。鈴木オートは近所中の好かれものだったのかも知れないが、やはりあそこまでの描写は過剰演出の感が強い。映っていたのが「力道山のプロレス中継」だというのもわざとらしいし(巷間言われているほどにプロレスにみんながみんな熱中していたわけではなく、それは街頭テレビでの話である)、テレビの普及と同時に失われていった文化として、子供たちが四辻や公園で群がっていた「紙芝居屋」が一切姿を見せないのもアンバランスである。
 山崎貴監督は、当時を知っている人が見ても不自然でないように心を配ったとコメントしているが、確かにうまい演出も目立つ一方、やはり「イメージの中の昭和」でしかないウソ臭い部分が随所に出てきて、どうしても「浸れない」のである。同じように昭和ノスタルジーを前面に打ち出した『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』には「浸れる」のはなぜかと言えば、あの「夕日街商店街」が、初めから失われた「虚構の街」であり、「未来への希望だけがある時代(未来を再生するためにあるわけではなく、時間はそこで永遠に止まっている)」への回帰願望を満たすためだけに機能しており、最終的にはしんちゃんたち家族によって、「そんな過去の幻想にしがみついてないで現実に帰れ」とノスタルジーを否定する枠組みがあったからである。
 原作マンガは、昭和30年代を描写するためだけに数十巻を要し、しかもまだ連載中である。だから、その全てを一本の映画に盛り込むことはもとより不可能である。というより、盛り込もうとすればどうしても「盛り込みすぎ」と「取りこぼし」が同時に生じ、不自然になってしまう。原作はマンガであるからこそ、初めから一つのファンタジーとして成立していたのだ。
 茶川龍之介(吉岡秀隆)と古行淳之介(須賀健太)のドラマは臆面もないほどに『チャップリンのキッド』をなぞっているが、下町とは言え、大通りで「淳之介〜!」なんて大声で叫ぶやつがいたら、昭和33年だってそいつは既知外である(笑)。映画のウソにだって限度はあると言うか、映画表現に節度があったのがまさに「昭和30年代」ではなかったか。原作通り、茶川先生をお爺さんにし、家の調度を荒らしもせず、ただ「背中で泣く」描写で抑えた方が、よりドラマチックだったろう。それが「分からない」人間がこういった題材を監督していることがそもそもの間違いなのである。
 六ちゃん(堀北真希)は私の最近のゴヒイキであるし、ところどころ好きな描写がありはするのだが、全体的には萎える部分が多かった。ラストの「50年先も夕日は一緒よ」のセリフはわざとらしいだけでなく、寂しく響くのみである。今は、あの時代がそこまでいい時代だったのかなあという疑問と(人の心は変わったと嘆くトシヨリはいつの時代でもいるものだ)、ノスタルジーにただ浸るだけの映画に何の意味があるかなという若干の憤りを感じているところである。

01月08日(日)
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