ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491661hit]
■夢の中の人/『ムーミンのふたつの顔』(冨原眞弓)
私とて、アニメのムーミンが初体験であるから、原作小説のいくつかを読んだときにはその「暗さ」に驚いたものである。本書でも内容が詳しく紹介されている『この世のおわりにおびえるフィリフョンカ』では、神経症に罹ったとしか思えないフィリフョンカの姿が描かれ、そして驚いたことに「偶然にも」彼女の不安は的中して、突然の竜巻で彼女は全ての財産を失ってしまうのだ。しかし彼女はようやく「これで破滅の不安に襲われずにすむ」と思い、笑い出してしまう。およそ児童文学には不似合いなブラック・ユーモアで、小学生でこれを読んだときの何とも言葉にできない違和感は、未だに鮮明に脳裏に蘇ってくる。
作者のトーベ・ヤンソンは、自らのこうした「暗い作品」に「子供向けではないのではないか」と批判が寄せられたときにこう明言している。「説得力のある児童文学とは、象徴や自己同一視や自己執着に満ちていて、幼い読者とは無縁の代物だ」と。簡単に言えば、「私は自分の好きな世界を書く。子供に媚びる気はない」ということであろう。媚びた文学はかえって子供からそっぽを向かれることもしばしばだ。この姿勢があったからこそ、ムーミンシリーズは人間の原初的な感性と感情とを、登場するさまざまな得体の知れないモノノケたちに託して象徴的に描くことが可能だったのだろうと思う。
日本のファンで、トーベ・ヤンソンがフィンランド人であることはかろうじて知っていても、実は彼女がフィンランドの少数民族であるスウェーデン系フィンランド人であり、ムーミンシリーズが全てスウェーデン語で書かれていたという事実まで知っている人はそう多くはないだろう。そういった作者の出自と、ムーミン一家がムーミン谷に至るまで、家族離散の中で放浪の旅を続けていた事実とは決して無関係ではないと思われる。小説によって、ムーミンたちが一般的な「明るいムーミン」と「寂しく暗いムーミン」のふたつの顔を見せているのは、ヤンソン自身がいくつもの「ふたつの顔」を持っていたことに起因しているのに違いないのだ。
ヨーロッパのムーミンと日本のムーミン、明るいムーミンと暗いムーミン、ラルス・ヤンソンのムーミンとトーベ・ヤンソンのムーミン、児童文学のムーミンとコミックスのムーミン、そして児童作家としてのヤンソンと、大人作家としてのヤンソン……。いくつもの二項対立を積み重ねながら、筆者はムーミン世界の多様性を詳述していく。
ムーミンシリーズの開幕作品『小さなトロールと大きな洪水』が上梓されたのは1945年。今年は戦後60年というだけでなく、ムーミン生誕60年でもある。小説のムーミン、コミックスのムーミン、絵本のムーミン、ヤンソンのほかの大人向けの小説、自伝などが今でも全て読めるのは本国フィンランドを除けば、世界では日本だけである。この中のどれか一つしかムーミンを知らないという人には、本書はそのサワリだけでも触れることができるきっかけになると思う。
08月11日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る