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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■井筒監督は「拉致はなかった」なんて言っちゃいないよって話/映画『真夜中の弥次さん喜多さん』
 最終日で楽に座れるかと思っていたのだが、結構お客さんが入っている。ざっと百人ほどか。しかも女性が連れ立って、というパターンが多い。しりあがり寿の原作マンガのファンか、監督の宮藤官九郎のファンか、主演の長瀬智也・中村七之助のファンか、と考えると、圧倒的に三番目なんだろうなあと、一番目の私はちょっと場違いなところに来てしまったような気にならないでもない。洋服売り場に迷い込んだ斑目(『げんしけん』)みたいなもんか。
 ちょうど後ろに並んだ女性陣が、これが何でここまで受けるんだってくらいに映画の間中、笑い続けでうるさい。いや、笑っちゃいけないわけではないのだが、明らかに「笑いの沸点」が低いのだ。弥次さんも喜多さんも、江戸時代人だからバイクに乗るのはおかしいと寺島進の白バイ岡引に注意を受けるとか、スキップしようとしてもスキップはできないとか、その程度でけたたましく笑うのだ。まあ古田新太が追いはぎにあった惨めな姿で「清水次郎長です」ってのや、中村勘九郎のアーサー王に研ナオコの脱衣婆といったキャスティングの妙、この世で死んだ人間の魂は老若男女問わず「荒川良々」になるってギャグには私もちょっと笑ったが(CGによる「荒川良々軍団大暴走」およびエンドクレジットのダンスは必見である)。
 そういう環境で見たもんで、反作用的に映画の印象はあまりよくない。確かに「弥次さんが、ヤク中の喜多さんを回復させるためにお伊勢参りに連れて行く」という原作のコンセプトは守られているけれども、しりあがり寿のあの“崩れた絵柄”から滲み出る独特の倦怠感、ほのぼのとしているようで何だか切ない味わいは生身の人間に演じられるものではない。主役の二人がマンガチックな演技を無理して演じているものだから、旅の途中途中の展開がやたらもたついて感じられてしまうのである。露天風呂で、弥次さんが喜多さんのタ○ブクロを引っ張って噛り付く、なんてギャグ、マンガならヒトコマでパッと描けちゃうものを延々実写でやったって退屈するだけだ。いったん原作を「忘れて」映画を見るべきだったと、見終わってから後悔した。
 全体として、ややぼやけた印象ではあるが、江戸時代と現代、現世とあの世、現実と空想とが混交する中で、「弥次さんだけがおれのリアルだ!」と叫ぶ喜多さんの叫びは切なく響く。その「リアル」だって幻想に過ぎないということはもラストシーンで再び「伊勢」に向かって疾走するイージーライダーの二人のその先が、『幕末太陽伝』の左平次が駆け去っていったのと同じく、どこにも続かない無明の世界だからである。
 あと、役者さんでこの人はいいなあと思ったのは意外にも弥次さんの妻・お初を演じる小池栄子だった。『義経』での巴もそうだが、目鼻立ちがくっきりしているのがそもそも役者としてかなり有利なのだが、その表情をどう生かせばいいかをよく知っているなあ、という印象なのだ。弥次さんと喜多さんの関係を知って、「米を磨ぎます」と真夜中に延々と米を磨ぎ続ける怖さ。包丁で刺されて死んでいく表情の苦しさ、悲しさ。自分を殺した弥次さんを許すときの慈母のような表情。充分演技賞ものだと思うのだが、グラビアアイドルだってことで批評家からは色眼鏡で見られちゃうんだろうなあということも予測がつくので、それがまた悲しいのである。

05月20日(金)
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