ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491663hit]
■楽しんでなきゃデマなんて流れるわきゃないのだ。/『物情騒然。人生は五十一からC』(小林信彦)
映画『シックス・センス』について、小林さんは、あの「意外性のあるラスト」について「映画のルールに従えば」推測は充分可能であり、「この程度のシナリオが珍重されるハリウッドはかなり荒れている」と批判する。もちろん、その指摘は全く「正しい」のだが(私も伏線まるでなしの『アンブレイカブル』を除けば、M・ナイト・シャマランの映画のトリックはその「へたくそさ」ゆえに開巻五分で見破ってまえている)、本来、あの映画は、そんな「意外性」を強調する方向にではなくて、ハーレイ・ジョエル・オスメント少年が、霊界お助け人として目覚めていく過程を描くことをもっとキモにすべきだったと思う(『花田少年史』みたいなシリーズものにすればよかったのにねえ)。妙にこの「どんでん返し」だけが巷間の話題に上ってしまったために、その後のミステリー映画は、ただ物語をひっくり返せばいいだろう、という安易な模倣に堕するものが増えることになってしまった。『愛してる、愛してない』『アイデンティティー』『箪笥』などはまあ出来がいいほうであったが、『シークレット・ウィンドウ』や『ハイド・アンド・シーク』などは全く無残な有様であった。
「二匹目、三匹目の泥鰌」を狙うのは映画界の昔からの悪弊であるが、もちろんこの「どんでん返しがあればいい」物語の流行の責任が、脚本のバランスをうまく取れなかった「新人監督」のM・ナイト・シャマランにあることには疑う余地がない。しかし、映画を見慣れていない若くて未熟な客が増えすぎていることにそもそもの問題はあるのだし、ましてや小林さんを初めとして、トリックを見破っただけでそれを嬉々として語る評論家たちの「野暮ったさ」が、かえって客の反発を煽っていることも感じないではいられない。ハリウッド映画が「荒れた」のはここ最近の出来事ではない。乱雑な脚本がまるで名作であるかのように喧伝されて堂々とまかり通るようになったのは『スター・ウォーズ』のころからそうだった。字数に制限のあるエッセイでは無理なことは承知の上で言うのだが、映画を本気で批評しようと思ったら、「自分が気付いたこと」だけではなくて、「このように作るべき」という点にまで踏み込まないと、ただの揚げ足取りになりかねないのである。
小林さんが今巻で取り上げている人々の中で、もう一人忘れてはならないのは(毎年取り上げてはいらっしゃるのだが)、映画評論家の双葉十三郎氏である。
私も氏の『ぼくの採点表』シリーズは、映画をどういう切り口で“読んで”いけばよいかの教科書として参考にさせてもらっている。つか、たとえシロウトでもね、これ読んでない人間が映画の批評を書こうって、そりゃおこがましいって言うか、出発点から間違ってるんだわ。“斬人斬馬剣”の辛口批評家として著名な氏は、この年、菊池寛賞を受賞している。それだけでも氏が“ただの映画評論家だけの人ではない”ことが分かるが、ともかく、A級、B級、C級と、映画に貴賤を付けずに批評する氏の姿勢は、いずれかの分野に偏りがちな昨今の映画評論家モドキは襟を正して範とすべきであろう。双葉さんは、海外の推理小説に通暁し、翻訳家でもあり、アメリカのジャズも戦前から熱心に聴いていた。そんな八面六臂の活躍ぶりの動機が全て、「勉強しよう」とか「既成の権威に対する抵抗」とか、そんな辛気臭いものではなくて、ただ「面白いから」、というのだから、これを「粋」と呼ばずして、何を「粋」と言おう。
1932年生まれの小林さんが、1931年公開のゲーリー・クーパー主演の『市街』を見ていないことに、1910年生まれの双葉さんは驚く。「そんなの見られるわけないじゃないか」と、若い人ならいかにも自分が正しい、といった口調で主張するだろうが、作品を批評するということは、そんな言い訳などが通用するものではない。双葉さんとて超人ではないのだから、“全ての映画を見ることなど不可能”だろうが、“それでも見ている”ことが映画評論の前提となるのである。映画を「好き」になるというのはそういうことだ。屈託なく「あ、それ、見てないっスね」なんて言ってるやつは、映画が実は嫌いなのである。そんなヤカラはもう、厚顔無恥としか言いようがないのだが、私も実は『市街』は未見で、これはもう「すいません」と謝るしかないのであった。
04月27日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る