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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■誰の名前を書きますか/映画『僕の彼女を紹介します』ほか
 別にそれを実際に書いたとして、もしも人に(具体的には親に)見られて「ウチの息子は他人をこんなに恨むような卑劣な人間なのか」と思われたらどうしよう、なんて思って怖がっていたからではない。もしも、万が一、たとえ一億分の一以下の可能性であったとしても、「その“恨み”が現実化したら」と想像すると、まさしく自分自身の「恨み」の強さに自分自身が押し殺されてしまうように感じたからである。
 私は「絶対に死んでほしい」と思う人間の名前しか心のノートに書きはしなかった。だから思うのである。鹿川くんの事件の子供たちが、「まさか死ぬとは思わなかった」と口々に言っていたのは絶対にウソであると。「『まさか死ぬとは思わなかった』という言い訳が成り立つと知っていたからこそ、“本気で”鹿川くんの死を願っていた」のだ。それが「人間」というものだ。

 デスノートを今買っている子供たちが、どうして心のノートに殺したいやつを書きとめるだけでガマンができないのか、そう考えてみればいい。既に彼らは「想像」から「実行」に一歩踏み込んでいる。「『これで人が本当に死ぬわけがない』という言い訳が成り立つから、“本気で”ノートに名前を書いている」のである。鹿川くんの事件は、鹿川くんが死ななければ事件になるはずがないものだった。デスノートの件だって、人死にが出なければどうということがないが、そのノートを「ほら、おまえの名前をノートに書いてやったぜ」と当人に見せつけるやからなど絶対に出て来ないと、どうして断定できるだろう。それが誰かの死に繋がらないと、どうして言いきれるだろう。「書く」という行為と「思う」という行為は決定的に違う。「読まれない」ことを前提にした文章などはありえない。書かれたものは、たとえその読者が「人間」ではなかったとしても、必ず「誰かが」読むものなのだ。「呪い」がたとえ何十億分の一であっても「実効力」を持つのはそのためである。

 これも何度となく書いていることであるが、私も、この日記を公開している以上は、私の文章を読んで傷つく人間、怒る人間、あるいはショックで死ぬ人間が出る可能性を覚悟して書いている。どんなに注意を払って、人を傷つけないやさしい文章を書こうと努力しても、最終的に文章を受け取る人間は、自分の思いたいようにしかその文章を受け取らない。こちらが「遊び」や「冗談」のつもりだろうと、結果として“本当に”被害者が出てくれば、私は何らかの「処罰」を受けるか、あるいは自らの手で自分に裁断を下さざるをえなくなるのだ。それは責任を取る、ということではない。他者を傷つけた者に回復できる名誉、取れる責任などは存在しない。これも何度も言っている通り、簡単に「責任ある行動を」などと嘯く人間はこの世で最も信用ならぬ人間である。罰か死か、選択はそれしかないのだ。

 だからと言って、私はノートの販売を教育上問題があるから禁止せよと言うつもりはない(いや、パクリだから、ちゃんと取り締まらなければならないのだが、それは置いといて)。中国の遼瀋晩報は、「ノートは邪悪な心を植え付ける毒薬」と批判しているというが、それは違う。人間はもともと邪悪なのだ。だからこそ「デスノート」の意味を、それを手にしたものが実感できるようにためしてあげなければならないと思う。こういう注釈をノートに書いておいたらいかがだろうか。
 「このノートに名前を書いたからと言って、本当に人が死ぬわけではありません。ただし、万が一、本当に死んだ人が出たとしても、当社とこのノートには何の関係もなく、一切の責任を負いません。殺したのはあなた本人の力です」と。
 インターネットの書き込みには、「そうして過剰反応するから中国には斬新な感覚が育たないのだ」などの声が続出しているそうな。別に「呪い」とか「死のノート」なんてアイデアは斬新でも何でもなかろうに(『デスノート』が面白いのは基本アイデアではなくてあくまでドラマ展開である)、そんなことも分からないから中国には斬新な感覚が育たないのであろう。
 さて、改めてみなさんに問いたいが、もし『デスノート』が実在していてそれを手に入れたとしたら、あなたは本当にそこに誰かの名前を書きますか?

01月29日(土)
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