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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■今年も毎月芝居が見たい/舞台『大騒動の小さな家』ほか
 映画解説者は、文芸評論家に比べるとなぜか異端な人々が輩出する傾向がある。フリークスが受容されやすいのが映画界だマスコミなのだ、と言われるとそうなのかもしれないが、それにしてもおすぎが映画評論家の代表のように思われている現在をも視野に入れると、そういう「流れ」ができていることが逆に映画の魅力を伝える方向をかえって歪めてしまった面もあるのではないか、と疑義を提したくはなる。彼らの存在はキャッチーではあったが、語られた言葉が信頼に足るものではないことも多く(感想文の域を出ない)、「この人たちに誉められても、面白そうに思えないなあ」と感じることも多かったからだ。「決まり文句」も逆効果で、淀川さんの「サイナラ、サイナラ、サイナラ」はともかく、水野さんの「いやあ、映画ってホントにすばらしいですね」と小森さんの「来週も、モアベターよ」は、つまらない解説を聞かされた後では特に「どこがすばらしゅうて何がベターなんや」と突っ込みたくなった。同様の思いをしていた人も多かったのではないか。
 「試写室で寝てばかりいる」と批判されていたこともある(江口寿史が『なんとかなるでショ!』の中でからかっていた)。「日本の映画評論をオカマと婆さんがダメにした」と堂々と書かれたこともあった。ワルクチを言われても、その活動に何か実があったならそれを撥ね返すこともできたと思うのだが、いかんせん、それらの批判はたいてい当たっていた。小森さんが表舞台から去って行ったのは病気のためだけではなかったと思う。
 新聞記事には「おばちゃまの死で映画界は大きな財産を失った」と書いているものもある。それは確かにそうだとは思う。ある意味、小森さんの存在は映画というもののデタラメさ、胡散臭さ、どこかヘンでキッチュな、抜群に楽しくてそれでいて悲しい、ありとあらゆるものがごちゃまぜになった闇鍋のような面白さを体現していた。映画は基本的に「異形」なのである。しかし、小森さんの活動はその「異形」を自らのものとして観客が受容し、どんなヘンなものでも愛せるようになるところまでには至らなかったのではなかろうか。結局、小森さんは一般の映画ファンにとっては遠い存在でしかなく、ただの「見世物」でしかなかったのである。
 空疎な言葉はもう要らないと思う。見せかけだけで人を引く「解説」は無益だと思う。これから映画を「解説」していく人は、たとえ身に異端のマントを纏っていても、その語る言葉には映画の光と影を切り開く鋭利なナイフを感じさせてほしいと思う。それが本当の意味で小森さんの衣鉢を継ぐことにならないだろうか。

01月09日(日)
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