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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■夢見る頃は過ぎてるか?/映画『悦楽共犯者』ほか
この手の経験は腐るほどしていて、私が経験した最初の例は「『時の過ぎ行くままに』、名曲だよねえ」「私もジュリー大好き!」というものであった(直前まで『カサブランカ』の話をしていたのだから、沢田研次のそれじゃないと気づいてほしいものだ)。
既に見る前からミソが付いてしまった印象の今回の劇場版だけれども、考えて見れば、『ワンピース』に「氣志團」というのは実に似合っている。海賊マンガのフリしてるけれども、あれ、本質はただの「ヤンキーマンガ」だからな(^o^)。
ヤンキーマンガを見分けるのは簡単で、例えば、一見温厚で陽気に見えるキャラクターが、友人が危険にあった途端に、「ああ?」とか言ってギロッと目を剥いて怒りを露わにしたら、それは性根がヤンキーなマンガなのである(非ヤンキーマンガは、そんな場合でも「ああ?」とは言わない)。キャラクターの友情の厚さを表現しているように見せかけてはいるけれども、実態は単にキレてるだけなので、人物に感情移入が出来ない。逆を言えば、ルフィの「ああ?」に全く不快感を抱かない人は、ヤン血がかなり濃いと思われるので、私には近づかないで頂きたい。でもしげもしょっちゅう「ああ?」って言ってるなあ(^_^;)。
「不良マンガ」自体は『男一匹ガキ大将』の時代からその系譜は途絶えることなく連綿と続いている。さらにそのルーツを辿れば、国定忠治とかの任侠もの、ヤクザものまで遡ることもできる。主人公はあくまで世間の道から外れたアウトローであって、そのマイノリティとしての孤独が読者の共感を呼び、全体としてはピカレスクロマンとしての面白さがあるというのが本質なのである。
つまり、ヤクザもヤンキーも、決して「オモテ」の存在になっちゃいけないものなのだ。座頭市が「ヤクザがお天道さまの下を堂々と歩くようになっちゃおしめえだ」と言ってる通り、アウトローが堂々とヒーローを演じて世間の喝采を受けていては、物語自体が破綻してしまう。
昔の不良マンガでは、主人公はたいてい孤独だったし(つか、不良マンガに限らず、「孤独」であることはヒーローの条件ですらある)、このセオリーを逸脱するものは少なかったのだが、それが変質していったのがきうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』や吉田聡の『湘南爆走族』あたりからだった。あれらのマンガあたりから主人公たちは能天気で、かつひたすら馬鹿になっていき、何の心理的挫折も経験することなく、周囲にそのままの存在で受容されるようになっていった。空虚な内容で、主人公の苦労も経験も成長もないマンガであるにもかかわらず、それが受けたというのは、読者が、苦労も経験も成長もしない自分自身を主人公たちに重ね合わせて自己肯定ができたからである。「オレってバカだけどそれでいいんだ!」って感じか。バカだって努力しなくていいってわけじゃないんだけれども、そこに気がつかないのがバカのバカたる所以である。あるいは「オレ、こいつらほどのバカじゃなくてよかった」という優越感を感じているのかもしれない。
『ワンピース』のクルーの中で、その登場の時点から「孤独」を身にまとっていたのはウソップ、チョッパーくらいのもので(だからこの二人は好きなんだが)、あとはギリギリ、ナミとニコ・ロビンがそれに続くくらいのものである。ゾロなんて「孤高の剣士」なんて紹介されることも多いが、どこをどう見たらアイツが孤高なのか(だからこそ前作『呪われた聖剣』ではゾロをルフィたちとムリヤリ引き離して「孤独」を演出するしかなかった)。ほかのキャラクターが敵に破れることはあり得ても、ルフィとゾロにだけは、それはない(負けても必ず雪辱を果たす)。しかし、そのような「恵まれたヒーロー」であるのは「真っ直ぐなヒーロー」にこそふさわしいのであって、「ヤンキー」がそれやっちゃ、「暴力振るって何が悪い」と開き直って、そんな自分たちの傲慢な態度を読者にも強要しているのに等しい。
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01月08日(土)
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