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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ある正義の死/『日本庭園の秘密』(エラリィ・クイーン)
Aではこれを「鳥のおばけ」、Bでは「半分の鳥」としており、訳が全く違っているが、原書ではどうなっていたのだろうか。断定はしかねるが、元の単語は“freak”とかなんとか言ってたのではないか。つまり、クチバシが半分になって欠けている鶴を「奇形」と例えたのである。それをAは「お化け」と訳したのだろうが、これじゃ何のことだか訳がわからない。まだしも「かたわの鳥」と訳した方がしっくり来るが、Bの方はそれでは表現的に問題があると考えて、実質的な意味として「半分」と訳したのだろう。
どうもこの比喩自体、Aの訳者には意味がわかっていなかったような雰囲気がある。その前のセリフでテリーは「なんたることだ」と言っているが、エヴァがパニックに陥って「ハサミ」という単語が思いつかずに「鳥」としか言えなくなっている状況を見ているのだから、Bのように、「なにを言ってる!」と戸惑うのが自然である。いったいAのテリーは何にアタマをかかえているというのか。
こんなのはほんの一例に過ぎず、Aの方はこんな愚訳がページをめくるたびに頻出するのだ。全く、「適当な訳してるんじゃねえや」と怒声を浴びせたくなる。文章の「わかりやすさ」という点では、このようにどうしてもBの方に軍配が上がるのである。
とは言え、Bの訳に問題がないわけではない。
例えば、引用される人名について、訳者が知らないと勝手に名前をカットするということをやってのけている。Bの285ページで、マクルーア博士が結婚しても別居生活をしようと主張していたカレンを評して、「新しがリやの女優をまねた気まぐれ」と語る記述があるが、これがAの259ページと比較すると「リューシー・ストーナーふうの気まぐれ」と書いてあるのである。実は「リューシー・ストーナー」という女優は存在しない。これはルーシー・ストーン(1818-1893)という19世紀の女権拡張論者のことを踏まえた記述なのである。つまりこれはAもBも誤訳。正しくは「女権拡張主義者のルーシー・ストーンをまねた気まぐれ」か「ルーシー・ストーン主義者をまねた気まぐれ」としなければならない。こういう知識的なことはちゃんと調べて書いてもらわないと、本当に困る。
また、先の例でもわかるが、Bの訳では差別的に思える表現を極力抑えている。ところが、どうもそれがやり過ぎの感が強いのだ。
Aの28ページ「スコット医師は、片目で、あたりをちらりと見まわした」がB30ページでは「スコット医師は、ちらりとあたりを見まわした」と、「片目で」がカットされている。別にこのスコットは目が潰れているわけではない。単に片目をつぶっていただけのことだ。それをいちいちカットする神経過敏ぶりはどうだろう。
Aの175ページにはクイーン警視に「ジャップ」と言われたキヌメについて、「キヌメは、またおじぎをして、警視の不注意な代名詞などは気にもかけないようすで、落ち着きはらって階段をおりて行った」との記述がある。これがBの194ページでは、「キヌメはふたたびお辞儀をして、静かに階段をおりて行った」と、「警視の不注意な代名詞」の部分がカットされているのだ。
これなどは逆に差別を助長しかねない、全くバカな措置だろう。「ジャップ」が日本人に対する侮蔑的な意味を表すことを説明している部分を削除してしまっては、事実を知らぬ人間にとっては、これが普通に日本人を指す言葉だという誤解を与えてしまう。これなどは、作者クイーンが戦前の反日の風潮の中で、それでも日本に対する一方的な偏見を持ってはいなかった何よりの証拠になるではないか。
こういう例が本書にはほかにも随分ある。これが「言葉狩りの弊害」なのである。判断力のないバカに差別を語らせちゃいかんよ。
翻訳のことを語りだすとキリがないから、この辺で切り上げるが、こうなると結局、「そんなに訳に不満があるなら、英語を勉強して原書で読めば?」ということになってしまうのである。そんなヒマがあるかい(でもこれは本当に原書で確かめられるものなら確かめたいのだ)。
多少の誤訳は私は気にはしない。「訳文を読んだだけでも誤訳だとわかるような稚拙な訳」が問題だと言ってるんである。
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06月13日(金)
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