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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■迷宮の扉へ/『冥土』(内田百フ・金井田英津子)/『プリティフェイス』3巻(叶恭弘)
 でもそんな他人事のように言ってるしげだって、実は職場で「動きが芝居っぽい」と言われているのだ。どうも何か動くたびにポーズを決めるクセがあるからだとか。
 ……ウチの中でもしょっちゅうやってるわ、それ。
 └|-.-|┐ ←こんなの。


 内田百フ作・金井田英津子画『冥土』(パロル舎・2415円)。
 パロル舎の「文学絵草紙」シリーズ第四弾。
 版画家・金井田英津子さんが取り上げてきたのは、萩原朔太郎の『猫町』や、夏目漱石の『夢十夜』など、幻想小説の佳作ばかりだが、内田百フの幻想小説とは、前二者とは少しくその質が異なる。
 「幻想」はもちろん「夢」であり、朔太郎も漱石も、自らの「夢」を小説という形で昇華させているのだが、百フのそれは、殆ど無作為、見た夢をそのまま綴ったような「とりとめのなさ」が感じられるのだ。そしてその夢にいつも絡んでくるのが「女」の影である。
 本書に収められているのは『花火』『尽頭子』『烏』『件』『柳藻』『冥土』と、本来は脈絡なく書かれた六つの短編だが、装丁を担当した金井田さんは、各短編の表紙に「道」の絵を配し、それをアニメーションのように進ませて、最後に荒涼たる草の土手の向こうにある「冥土」へと案内して行く。
 そしてそれぞれの短編に、密接に「女」が絡んでくるのだ。

 主人公はみな「私」である。漱石の『夢十夜』は必ずしも全ての短編が一人称では書かれていなかったが、百フの語り手は常に「私」だ。
 『花火』では、紫の袴の女が花火の立つ葦の原を横目に土手を越え、座敷へ「私」を誘う。そこで「私」は足萎えになる。
 『尽頭子』では、狐のような愛人の家で「私」は、ムリヤリ馬に灸を据える先生の弟子にさせられる。
 『烏』で「私」は、宿の女に案内されて、烏の羽を毟る男の隣室に泊まらせられる。
 『件』で、吉凶の予言をするという「件」に変身した「私」を、村の人々がその予言を聞こうと取巻く。これには唯一「女」が出てこないが、夜空には女を象徴するような黄色い大きな月がかかっている。
 『柳藻』の「私」は、妖婆に使われていた可憐な少女を救い出す。
 そして、「私」の旅は、もはや誰もいない『冥土』へと赴くのである。

 百フの文章は決して読みやすいものではない。
 いや、別に難解な語彙や、凝った言いまわしをしているというわけではない。語られる言葉自体は実に平易だ。しかし、その言葉の先に何があるのかが一向に見えないのだ。
 どこまで行っても尽きない黒板塀の道。
 百フの世界に足を踏み入れたとき、私たちは、出口の見えぬ迷宮に入りこんでしまったことに気づくだろう。
 それが、「恐怖」の正体だ。


 マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』3巻(集英社/ジャンプ・コミックス・410円)。
 予想通り、アッサリと美和先生は由奈(実は乱堂)を疑うのをやめました。ちゃんちゃん。
 いや、話はまだ続きますが(^_^;)。
 それにしても、月刊ならともかく、週刊で次から次へとよくもまあ、これだけ由奈を窮地に陥れる設定を考えつけるなあ、とちょっと感心。この手の話は、昔『ふたば君チェンジ!』なんかでよくあろひろしがやってたけど、すぐ頭打ちになってたからなあ。どれもこれも全部ムリヤリギャグに見えるかもしれないけれど(実際そうなんだけれど)、これ続けるの、結構才能いるよ。
 でも、新しい窮地を考えるたびに新しいキャラを増やしてくのはあまり得策じゃない。その場合、たいていのキャラは「使い捨て」になっちゃうわけで、美和先生もアッと言う間にザコキャラになってしまった。
 新登場の植田望、由奈に「お姉さまっ」と突進してくいい味わいのキャラなんだけど、さあ、こいつも4巻以降、作者がちゃんと使いこなせるのかどうか。(2003.3.18)

02月18日(火)
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