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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■そのうち隔離されるかな/アニメ『ユキの太陽』(宮崎駿)/『カルト王』(唐沢俊一)
単行本の出版は1997年だし、この日記に感想を書いたことはないから、まあいいでしょ。
唐沢さんも文庫版あとがきで書かれている通り、これは唐沢さんが「ライター」から「作家」に移行して行く過程の原稿が集められている。要するに、雑誌の注文に応じて原稿を書いていた時期から、その注文は注文として、自分の志向を原稿に反映させられるようになった時期への転換の様子が見られる、ということである。
もっと簡単に言っちゃえば、「ネタ中心」から、「ネタを自分の眼で分析」へ変化していったってところだろうか。いや、もちろん初期に分析がなかったわけではないが、それは編集者の「こう書いてほしいだろう」という意向を察したような文章なのだ。
例えば、冒頭にある1992年以前の原稿であろう「僕の周りにやってきたアヤシゲな心霊家たち」にはこんな文章がある。
「心霊家の人々は自分を見ない。多分、欠点だらけの自分に面と向かうのが恐ろしいのだと思う。そして、何があろうと決して自分を責めない。(中略)これは卑怯な生き方である、と思うのである。オカルトとは自分の心の中にある本当の自分自身と出会う道だ、とよくいわれる。しかし、人間である限り、どんな高僧、聖人であろうと、本当の自分の姿は多分正視に堪えないほどに汚れていて醜いにちがいない。神とは、その自分の姿に向き合う勇気を与えてくれる存在でなくてはいけないと思うのだが。(中略)僕が怒りを感じるのは、自分への正当化の手段としてオカルトを使い、それを悪用している連中である。」
この分析・批評が、「ウソ」だと言いたいのではない。実際に唐沢さんが出会ってきた心霊家の人々がトンデモさんだらけだったのは事実だろうし、信仰のあるベき姿を当時の唐沢さんがこのように考えていた、というのもそのまま出ていると思う。義憤も当然あったろう。
ただ、同時に、唐沢さんの心の中に、この自分の書いた文章に対する「自己批判」もあったにちがいないと思うのだ。
なぜならこの文、あまりにストレート過ぎるのだ。
芸がない、とか若書き、と言ったら失礼かもしれないが、しかしそれがおそらくは掲載誌の編集者の「意向」でもあったのだろう。「あまりふざけないでくださいね」という雰囲気を漂わせていたものであろうか。駆け出しのライターであれば、それに逆らって「おれの書きたいのはこんなんじゃないんだ!」とか言って卓袱台をひっくり返し(そんなものはなかったろうが)仕事をフイにするわけにはいかない。
これが、数年経つとガラリと変わる。
例のオウム真理教事件に絡めて日本のホモ文化を評した「やおい少女たちがオウム真理教に恋をする理由」では、それこそ「オカルトを悪用」しているあの団体について、唐沢さんは怒るどころか、「あやしげなものファンにとって、オウムはまことに魅力的に見えた団体だった」「オウム真理教という団体は、その悪趣味性ゆえに、すべての、日常に対し不満を持っている人間にとって、すさまじくオモシロイものであった」と書くのである。
これは変節ではない。ましてや、唐沢さんがオウムのような犯罪組織を正当化するようになったわけでは決してない。自らの道徳観を優先するあまり、人間の「悪趣味」に惹かれる感覚を無視していけば、いつかそれは、人間の本性を否定し、自らの正義のみで他者を峻別し断罪するようなファシスト(藤子・F・不二雄の『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』ですな)になってしまいかねない。唐沢さんは、それを「作家」として「回避できるようになった」ということなのだ。
あのとき(もう8年前だ)、日本中の人間がテレビに齧り付いた。
そのときの我々は義憤だけであの事件を見ていたか?
唐沢さんが言うように、みんな「オモシロ」がっていたのではないか?
なにしろ私もあのときはついウッカリ江川紹子のファンになってしまい、著書を買い求め、更には自分の書いた戯曲の登場人物に江川さんの名前をモジって名前を付けてしまったくらいである(あほや)。
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01月24日(金)
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