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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■インド人にビックリ/『膨張する事件』(とり・みき)/『バンパイヤ/ロックの巻/バンパイヤ革命の巻』(完結/手塚治虫)ほか
しかし、レオは人間の欲望に巻き込まれて死んだ。にもかかわらずレオはそんな人間たちを最期まで助けようとした。結末がいささか唐突であろうと、手塚治虫が描きたかったのは、まさにその、欲望にとりつかれた人間のエゴである。そして人に知られぬ秘境で起こった事件の顛末を、人間たちに伝えるための「告発者」が必要となるのである。
ヒゲオヤジはその役にうってつけだった。
ヒゲオヤジはオトナである。主人公である少年たちのよきサポート役である。しかし実はサポートに徹しなければならないということは、彼自身は物語の中で常に「無力」であることも運命的に担わされている、ということである。
しかし、「無力」だからこそ、彼は世俗的な人間の欲望に引きずられることも少ない。ヒゲオヤジが「正義派」に見えるのは、実は彼が物語を左右するキャラクターではないからなのであって、一つ間違えれば彼が「悪」に転ぶ危険性も常に孕んではいたのである。
本巻収録の『太平洋Xポイント』は、ヒゲオヤジに少し物語に関わる「力」が加わった作品である。必然、彼は「正義派」にはなれなくなる。そして最後に、これまでの作品では圧倒的に生き伸びることの多かった彼が、ついに死ぬのである。
私はヒゲオヤジが死ぬ作品をこれの外には『ブラックジャック』の数編くらいしか知らない。キャラクターに仮託したようなモノイイはいささか感傷的に過ぎるかもしれないが、私はもう随分前からヒゲオヤジは「死にたかった」のではないかと思うのだ。
『Xポイント』のラストシーンのヒゲオヤジの顔は、まるで永遠に死ねない者がようやく終焉を得た満足感に満ち溢れているように見える。
『ポーの一族』のオリジナルは実は「ヒゲオヤジ」だった、と言ったら、怒る人いるかな。でも私にとってのヒゲオヤジは、そういうキャラなんですよ。
マンガ、手塚治虫『バンパイヤ/ロックの巻』『バンパイヤ/バンパイヤ革命の巻』(完結/秋田書店/秋田トップコミックス・各300円)。
ホントは完結してないんだけれど、第2部は雑誌の休刊で結局未完のままだから、特に手塚マニアでない人はここで読むのをやめるのがちょうどいいと思う。
もともとテレビドラマ化で再開された第2部だし、生前の作者は「必ず続きを描きます」とか言ってたけど、それが本気ならいつだって再開できたはずだし、作家のこういうセリフはほとんど眉唾なのである。
作品の発表は1966年から1969年にかけてで、手塚治虫が少年マンガから青年マンガに移行していく直前にあたる。そのせいなのか、『少年サンデー』に連載されていた作品であるにもかかわらず、青年誌的なダークな雰囲気が漂っている(この雰囲気は『どろろ』にも共通するもの)。
さて、たしか夏目房之介氏も指摘していたと思うが、当時の手塚作品、昔のマンガチックな表現と、リアルな劇画的表現がせめぎあっていて、今の目で見るとなんとも珍妙に映る部分が多いのだ。
手塚ファンには名シーンとして捉えられることの多い「ロックのミュージカル」シーン、冷静に見たら笑えないかね。いや、昔見た時には笑うというより「なんじゃこりゃ?」だったんだけど。
政府の要人をバンパイヤを利用して次々に暗殺していくロックが、自分の悪魔的行為に酔いしれて、ホテルの一室で踊り出すのである。手塚治虫はそれまでにもマンガの中によくこういう音楽シーンを挿入することが多かったのだが、『バンパイヤ』ではその手のたぐいの「おふざけ」をずっと控えていたので、いかにも唐突な印象を与える。
しかもその歌詞が「しきたりなんかクそっくらえ!! ゴミすてるな? 花おるべからず? 動物をかわいがれ? 信号は赤でとまれ? へん チャンチャラおかしいや」である。殺人まで行ったロックにしちゃ、歌の内容、かわいらしすぎないか。これじゃまるで「悪人のクセにたいしたことができない」アメーバボーイズである(その他このギャグのサンプル極めて多し)。
続編が描けなかったのは、かつてのファンの要望に合わせれば当時のこんな「いびつさ」までも再現せねばならず、かと言ってそんなことをすれば現代の読者から失笑を買うことを覚悟せねばならず、にっちもさっちも行かなくなっちゃったからではないか。
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01月05日(日)
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