ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491726hit]
■アッパレパソコン大合戦/『アニメージュ』6月号ほか
これも言いきってしまうが、『ホルスの大冒険』のヒルダのような、単純な線でなおかつ万感を表現するようなアニメ技術の冴えを見せてくれたキャラは、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』の蓮姫を見るまでは皆無に等しかった。
今のアニメに感動すること、ハマること、それは別に構わない。
しかし、どうしてこうも過去のアニメや映画を見ない世代が増えてきたのか。
昔に比べて今はビデオもある、BSもCSもある。情報も盛んに提供されている。なのに、今の10代、20代は本当に昔の映画を見ようとしないのだ。
理由を聞いても「興味がないモノをなぜ見ないかと言われても……」とキョトンとする。その「なぜ興味がわかないか」ということを問題にしてるんだがねえ、私ゃ。
我々の世代なら映画を見ていく段階で自然発生的に生まれていた好奇心が、彼ら彼女らには見事なくらい、ケツラクしているのだ。
増えすぎた情報に対処しきれなくなっているというのもあるのだろう。
実際、今から生まれてくる子供は、私と特撮モノについて語ろうと思ったら
『ゴジラ』『ガメラ』『ウルトラ』シリーズは言うに及ばず、『ガッパ』も『ギララ』も『ゴケミドロ』も(キリがないので止める)、全部見なけりゃ対等に話せないのである。
アニメにしたって、せめて東映動画の長編全作(短編は私も何本か見逃しがある)くらいは見ていてくれないと、「ああ、千尋の階段落ち、あれ『長猫』のルシファーの変形だよ」とかいうこと話したって、何のことだか全然わかるまい。
けれど、我々だって、全ての映画やアニメに通じているわけでは決してない。
カネもなく、なかなか時間が取れずに、若いころは見たい映画も見られなかったのだ。それでも衣食住の出費を削り、古本を買い込み、映画館に通い、電器屋のディスプレイで未見のテレビアニメを見た。
未だに見ていない過去の名作・愚作は腐るほどある。
しかし、それを見ることを今の人のように「諦めて」などいない。
昔も今も、情報量の多さにメゲたりはしていないのだ。
私ゃ未だに明智小五郎と金田一耕助と多羅尾伴内の映画を全て見るまでは死ねないと思ってるんだが。
若い人、みんな人生をどこかで「諦めて」ないか?
若い癖にどうしてそんなに「焦り」がない?
若い今の感性でしか感じられないものを手に入れようって欲求がなぜ生まれない?
結局、そういう若い人たちと話をしていても思うのは、「つまんない生き方」しかしていない人間が、映画やアニメを「つまんない」と馬鹿にしているということなんである。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』はわずか9票で62位。アニメージュは今アニメファンに支えられているわけではないと断じたところで構うまい。
規定枚数を越えたので、この話題、明日の日記に持ち越す。
……書き出すと、本当に止まらないね。
『キネマ旬報』5月下旬号。
亡くなったビリー・ワイルダー監督の特集号だけれど、一番読んでてジンと来たのは蛭子能収さんが寄稿してるエッセイ。
亡くなった奥さんとの映画三昧の日々を、かつての投稿時代の貧乏生活を背景にして綴られているのだけれど、ご本人はおおマジメに書いているのだろう、けれどその筆致は、どこかユーモラスで切なく、内容も切ないけれど何となくおかしくて笑ってしまう。
蛭子さんが若いころ、よく行く画材店の従業員が、『去年、マリエンバードで』を見に行った時に偶然来ていたこと(もちろんそれが後の奥さん)。
『パリ、テキサス』を見ながら腹を立てて席を立とうとした奥さんを、「最後まで見て評価しようよ」と一生懸命なだめたこと。
死ぬ前日に見た映画がティム・バートン版の『猿の惑星』で、「せめて死ぬ前日くらい『最高に面白かった』と言える映画を見たかった」と述懐するおかしさ、悲しさ。
やっぱり映画で繋がってる夫婦って、とてもいいものなんである。
夜、こうたろう君に電話。
無事帰りついてくれてたようで安堵。
また、しばらくは会えまいが、いずれそのうち。
05月13日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る