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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■10年ぶりのスプラッタ/『西原理恵子の人生一年生』(西原理恵子)ほか
 帰宅して、CSちゃんねるNECOで『うる星やつら・オンリーユー』と『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』を見る。
 この2本も何度見たかわかんないけど、間を置いてみるとホントに飽きが来ないなあ。
 劇場版第一作は監督本人は「つまんない」のヒトコトで切り捨ててるけれど、それはこれが実に映画の「教科書」的作り方をしているからだろう。
 導入、展開、クライマックス、オチ、ドラマツルギーもパターン通りだし、このカットのあとには切り返してこのカット、音楽はここで入れて、といった細かい演出も、実に的確。……でも逆に言えば、映画学校の優等生が作った映画って言われてもしかたがないくらい定番すぎるキライはある。つまり「破」がないし「個性」がないのだね。
 映画のリズムが崩れることを承知の上で、劇場公開時にカットしたシーンを「完全版」として挿入したのも、その「破」をあえて作るためだったのだろう。その証拠に、完成度の高い第2作にもあたるが未来社会をさ迷う場面などがカットされているにもかかわらず、そちらの方は未だに復活していない。
 ……でも、ホントに『ビューティフルドリーマー』は傑作だよなあ。
 大学生のころ、最初に見たときには「ラムの世界の中にどうしてもう一人のラムがいるのか」ということの意味がよくわかんなかったんだけど、あれ、ラムの自己欺瞞なんだな。
 つまり、マドンナとしてのラムはあくまで美しく、でもホンネの「責任取ってね」のラムは自分と切り離して見ないフリしているのだ、あの女は。……ああ、女性経験が増えるってことは、こんなわかんなくていいことまで見えちゃうようになるってことなんだなあ。大学時代の私って、なんて純でナーバスだったんだろう(^_^;)。
 もちろんそれは社会的弱者たる「女」の自己防衛の手段でもあるのだけれど、映画はつまるところそういう「女」を描くものなのであるという、究極の映画論をあの世界の「演出家」たる「夢邪鬼」に語らせちゃったがために、『うる星2』は究極の映画にもなりえたのだ。
 おかげで、それ以降に作られた『うる星』はテレビも映画も、全てラムと夢邪鬼の手のひらの上で動く作品に塗り替えられてしまった。『2』ほどの密度を持った世界観を持って作品を構築しえたのは、やまざきかずお監督他の人々にバトンタッチされてからあとは、わずかに『うる星やつら4・ラム・ザ・フォーエバー』1本を数えるのみである。


 しげが仕事に行ったあと、肉野菜炒めを作ろうと思って包丁でタマネギを切りかけたら、見事にすべって左の人差し指をザックリ切ってしまった。抑えても抑えても血が吹き出るのが止まらない。
 以前も「あんたの血、薄いね」とケロリと医者に言われたことがあったけど、なんかまたそうなってるのかなあ。
 だいたい、結婚して以来、十年、指切ったのなんて、数えるほどしかない。もしかしたら初めてかも。
 しょっちゅう切ってるしげとは雲泥の差なので、結構慌てる。バンドエイドを何枚張り替えて押さえても、間からジュクジュクと血が滲み出して来る。水で流したり押さえたりを繰り返して、10分ほど悪戦苦闘して、やっと血が止まるが、ジンジンした痛みはおさまらない。相当深く切ったらしいけど、治るかなあ。糖尿もあるし、新陳代謝だって衰えてるだろうから、ずいぶん時間がかかるんじゃないかなあ。
 なんだかこんな小さなことですらビクつくようになっちゃった自分がちょっと情けないなあ。

11月06日(火)
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