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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■虚構としての自分/『マンガと著作権 〜パロディと引用と同人誌と〜』(米沢嘉博監修)
それに比べて、第2回は飯田圭、石井裕一郎、牧野二郎の法律家三氏に、マンガ家のみなもと太郎が疑問を呈する、という形式を取っていて、こちらはなかなか楽しめた。
感想を書き出したらキリがないが、一つ言えることは、これから同人誌を作ろうって人も、今現在作っている人も、いや、「創作」に携わっている人は、絶対に、この本(特に第2回)を読んでおく必要があるってことだ。
マンガのパロディ描いたり、ヤオイ本出したりしてる人は、「著作権」って聞くと、すぐにオリジナルのほうの著作権のことばかり考えて、自分たちの作品にだって著作権があるんだってことを忘れてしまいがちだ。
なんとなく「それは著作権に引っかかるから」なんて言葉をよく聞くから、これは描いちゃマズイんじゃないか、とか、ここまで描くとさすがにヤバイ、とか、ついそんな消極的な発想で筆が鈍ることが往々にしてあるけれど、でも、現実に日本で「パロディ」が裁判沙汰にまで発展したのは、いわゆる「マッド・アマノ」裁判一例しかないのである。
……この件もかなり有名なのに、若い人は全然知らないんだよなあ。自分の半分しか生きてない人でも、話してるとこいつ、私の十分の一か百分の一しか生きてねーんじゃないかって思うことあるぜ。
マッド・アマノってのは人名だ。既成の写真をコラージュして、数々のパロディ写真を作ってきたのだが、そのうちの一つ、白川さんという写真家が撮った雪山の写真の上にでっかいタイヤと轍の写真を合成して、自然の雪山がいかに人間に蹂躙されているかを揶揄する作品に仕上げた。
それが結局はオリジナルの写真の著作権を侵害していることになる、と判決が下されたのである。
この判決自体、なんでやねん、と私などは怒りを覚えるが、百歩譲って、仮にこの判決を妥当なものだと考えたとしても、それで全てのパロディ、批評が禁止されたとまで敷衍することはできない。
なのに、我々はつい「サザエさんの性生活」を描いたら、「長谷川町子記念館」から訴えられるんじゃないか、とビクビクしてしまうのである。批評のための引用なら許諾はいらない。実はこれ、法律でちゃんと認められているのである。
確かに、誹謗、中傷、営業妨害目的のオリジナルの改竄は戒められるべきだろう。しかし、例えば、ある作品のパロディ本を描いたとして、それが誹謗の範疇に入るのか、批評の域に達しているのか、今書いた通り、その判例は「マッド・アマノ」裁判しかないのだ。
現実には、裁判に至る前にパロディを描いた方が謝ったり、示談に持って行ったりして、初めから「負け」ている。
それでほんとうにいいのか? という疑念が、第2回のシンポでは、法律家の方から出されているのだ。
「自信を持っているのならやってほしい。やってから(弁護士のところに)相談に来い」と、牧野さんは発言しているのだよ。
私個人はヤオイ本なんて全部クズと思っているが、だから「禁止せよ」「絶版にせよ」「もう描くな」なんてことを言うつもりは毛頭ない。たとえどんなにヒドイ内容のものであっても、批判の対象にこそなれ、出版差し止めなどを要求していいものではない。それが「言論の自由」ということだ。
その点で行けば、小林よしのりの『脱ゴーマニズム宣言』出版差し止め裁判は、小林さんにとっては自分で自分の首を絞めるも同然の訴訟だったと思う。……『新ゴーマニズム』の中でいろいろ言い訳してるけどねえ、結局、「引用する場合、もとの絵や文を改竄してはならない」点において出版が差し止められたんであって、『脱』が批評本であることは認められたのだから、『脱』の作者の上杉聡さんが改訂版を出せば、小林さんはもう何も言うことはできないのである。
同人誌作家たちも、自分のことを仮にも「作家」であると自覚しているのならば、こういうシンポジウムに積極的に参加するくらいの気概を見せてほしいものだ。主宰の米沢さんが嘆いていたのは、一番参加して欲しかったパロディ同人誌の作り手たちがみんなこのシンポに対して及び腰だったということなんだぞ。
ヤオイ本の作者たちがそのオリジナル作品を愛してるなんてのは、ウソだなあ、とつくづく思う。彼女たちが愛してるのは自分だけなのだ。
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09月04日(火)
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