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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■変わるわよ♪ ……何がだよ/アニメ『こみっくパーティー』第1話ほか
芥川賞作家、畑山博氏、肝不全で死去。66歳。
小説家としての畑山氏の作品は全く読んでいない。でも、その著作や言動には一時期やたらと触れた。
畑山氏が宮澤賢治の研究家としても著名だったからである。
1996年、宮澤賢治の生誕100年記念番組をNHKBSが放送したときには、総合ナビゲーターを畑山氏が務めていた。
語り口は実に朴訥としていて起伏に乏しく、お世辞にも見ていて興味を引かれるものとは言えなかった。けれど、たいていの宮澤賢治研究家が、宮澤作品の映像化に否定的だったにもかかわらず(天沢退二郎などは「失敗作」の一言で切り捨てている)、畑山氏は高畑勲作品の『セロ弾きのゴーシュ』を高く評価しているのが印象に残った。
一時期の宮澤賢治熱が去ったかのように、ここ数年、宮澤作品の映像化や特番はほとんど見当たらなくなっている。代わりに脚光を浴びているのが金子みすゞという印象がある。
なんだか世間が勝手に盛り上がって宮澤賢治を持ち上げ、飽きた途端に見捨てていったみたいで、長年のファンとしてはどうにも気分がよくない。『風の又三郎』にしろ『銀河鉄道の夜』にしろ、まだまだ評価が定まっているとは言いがたい。新たな解釈で映像化を試みてもいいのではないいか。
何より、『銀河』のほうは、未だに一度も映像化されたことのない、通称『ブルカニロ博士編』と呼ばれる初稿形もあるのだ。紛失した「天気輪の柱」の章を補完してみるという手もある。アプローチの仕方はまだまだ残っているだろう。
カムパネルラは決して自己犠牲に殉じていたわけではない、というのが私の昔からの意見である。ジョバンニをあの銀河鉄道に乗せたのが誰だったかを考えれば、カンパネルラの利己心が見えては来ないか。宮澤賢治を『雨ニモマケズ』の詩一つに集約して、自己犠牲、滅私奉公の象徴のように扱う観念主義、精神主義の徒は未だに多い。しかし賢治は、大いなる迷いの人であったし、自己の煩悩を制御できない人であったし、人を思うことを考えながら人から逃げていた人でもあった。
賢治が生きていた当時の花巻の人々の評価は「変人」なのである。変人の評価が100年や200年で固まるはずもないことだ。
畑山さんもなんとなく変人っぽい人だった。
今年は賢治の弟、宮澤清六氏も死去しているが、この人もどこか超然とした雰囲気の人だったようだ。
ほんの少しだけ昔の人だった親しい人々が、遥かに遠い昔の人になっていく。仕方のないことだが、寂しい。
今日から本格的に仕事を始める。
私が入院する以前からご病気でお休みしている同僚も、今月から復帰されると聞いていたのに、なぜか出勤していない。
「○○さん、どうしたんですか?」
と他の同僚に聞くと、
「来られないのよ」
との返事。
「まだ、ご病気が治られてないんですか?」
と聞いても、ハッキリした返事がなく、歯切れが悪い。
「……いつごろ戻られるんですか?」
「それが……わからないの」
「……復帰されるご意志はあるんですよね?」
「……実は、こないだ来られたのよね。みんなで拍手して迎えたんだけれど……そこでドラマがあってねえ」
「ドラマ? 何ですか?」
「……聞かないほうがいいわよ」
こ、ここまで引いて、何も説明してくれないとは(・・;)。
いったい何があったのだろう。やはり入院なんてしてると世の中の動きから取り残されちゃうのだなあ。
テレビで漫然と『名探偵コナン』を見ていると、女児誘拐の田中邦彦容疑者をさいたま市で逮捕のテロップが流れる。
……臨時ニュースで流さねばならんほどのことかと、そのこと自体にビックリ。どうもこの事件、ワイドショーを含めたマスコミが、どう取り扱ったらいいのか苦慮しているような印象があるのだなあ。
幼い子供を誘拐しているわけだから、これはもう、立派な凶悪犯罪、ということで怒りたいところなのだろうが、監禁こそしたものの、女の子は無事解放されていて、イタズラされた形跡もない。
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09月03日(月)
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