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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■いつのまにかの240000ヒット/舞台『ブラックコメディ』(劇団四季)
 つまり、停電中の真っ暗闇というシチュエーション、これが舞台では全体照明の下で描かれ、ほんのかすかでも明かりがある状態(マッチやライターの火や、懐中電灯など)のときは照明が落とされている、という「逆転照明」の演出である。

 映画と演劇の違いから詳述していったら字数の限界も越えてしまうだろうから、かいつまんで書くより方法がないが、これが映画なら、実際に闇は闇として描くしかないところだ。「明るい闇」などは、演劇の持つ「見立て」の表現効果を知悉していなければとても思いつかない発想だろう。この一点をもってしても『ブラックコメディ』が傑作であることは論を俟たない。シェーファーの代表戯曲は『エクウス』も『アマデウス』も映画化されているが、この『ブラックコメディ』だけが未だ手付かずであるのは、まさに「演劇でしか表現できない」魅力に溢れているからだろう。
 結果、観客は「暗闇の中のスラップスティック」を「白日の下で」観劇するという、実にスリリングでエキサイティングな、現実にはありえない体験をすることになる。これがなぜ観客に快感をもたらすのか、それは他人のヒミツをこっそり垣間見る「覗き穴願望」を劇場全体に拡大して充足させて見せたからだと言っていいだろう。
 まさに我々観客もまた、この「明るい闇の住人」としてここにある。

 これだけ上等の戯曲であれば、多少、演技に難のある役者が演じたとしても、充分面白い芝居になる。実際、ストレートプレイを得意としない四季の役者ではあったが、今回の舞台はこれまで私が見てきた四季の舞台の中でも上位に位置するものであった。
 しかし、『ブラックコメディ』の実演としては、最低レベルの舞台化であろう。観客はそれなりに笑ってはいたが、これが最適な役者と演出で行われていたなら、こんなものではすまないはずである。まさに抱腹絶倒、呵呵大笑、膝を叩き、息を詰まらせ、涙を流し鼻水垂らし、椅子から転げ落ちて床を叩き、ヒキツケを起こした挙句に心臓麻痺を起こして死んでもおかしくないほどに狂い笑うことは間違いないからである。
 なぜそうならないのか。役者の誰一人として、闇の中の演技ができていないことが根本的な原因としてある。

 役者たちは果たして、実際に目隠しをして演技をしてみる、などの試みをしただろうか。学校の同和授業などでよく「盲目の人になってみる」ために目隠しをして部屋の中や路上を歩く、などのシミュレーションを行うことがあるが、実際に一度何人か集まって試してみれば私の言いたいことは即座に納得していただけるはずである。実に千差万別、一人一人が奇妙でいびつな歩き方をし、そこには統一性も均一性もなくなるのである。
 ある者はひたすら壁を探し、そこから伝うように出口を探し、ある者は四つんばいになり、ある者はへっぴり腰になってあとずさり、ある者はうずくまったきり動けなくなる。歩くスピードも決して均等ではない。一歩進んでは立ち止まり、からだをいびつに曲げ、手を伸ばすかと思えば足で床を探り、見ようによっては暗黒舞踏を目の当たりにしているように思える時もある。
 それをいかに舞台上に再現して見せるか。工夫のしようはいくらでもあるはずだ。明るいところでは立派な態度の紳士が、闇になった途端に豹変しておかしな仕草を見せるとか、役者も演技のし甲斐があるはずである。

 ところがそういった工夫がこの舞台には一切ない。彼らは全員一様に手を先に伸ばす姿勢で歩き回り、スピードも均一で、あたかも目が見えているかのごとくである。いや、随所で偶然ではなく相手をするりと交わし、「確実に目が見えている」動きをしてしまっているのだ。これで「私らはプロの俳優でございます」と大口を叩くのであれば、「客を舐めるな」と言いたくなる。
 もしもあれで「暗闇の練習もちゃんとしました」と言うのであれば、もう役者としての資質自体に問題があると断定せざるを得ないだろう。


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02月09日(金)
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