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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■いじめを楽しむ人々/映画『アジアンタムブルー』
「言葉遣いに気をつけよう」なんてスローガンを平気で口にできる人間はかえって言葉の恐ろしさを少しも知ってはいない。
私のこの文章を読んで自殺をする人間がいるかもしれない。それくらい、言葉というものは凶器なのだ。
人を殺す可能性があることを知ってもなお、発言しなければならないという覚悟がなければ、本来言葉などというものは一言も発せられるものではないのだ。
あの文科大臣に果たしてそこまでの覚悟があったと言えるだろうか。
私が伊吹文明を史上最低の文科大臣と判断するのは、その一点があるからである。
「死ぬやつぁ勝手に死なせとけ」という言葉を乱暴だと感じる人間もいるだろう。
けれども、言葉が凶器であるという前提に立つなら、相手が凶器を持っているのに全く無防備でいるというのは、防御を講じようとしない側にも責任があるということにはならないだろうか?(だから「いじめられる側にも問題がある」という主張を、単純に「いじめる側に立った立場の発言だ」と一蹴してはならないのである)
実際には前述したようにいじめ事件はケース・バイ・ケースで、全てを一律に語ることはできない。
だから、全てを一律に済まそうとする「会見」とか「委員会の発足」とかが、ことなかれ主義の表面的な対処に過ぎず、実効力を全く伴っていないことは明白なのである。
いじめ事件の問題点は、例えてみれば、「電車の中でヤクザに絡まれている人を見たらどうするか」という問題と深く関わっている。
そもそもヤクザがいなけりゃいい、という考え方は無駄である。
実際にヤクザはそこにいるし、被害者もそこにいるのだから。
そんなとき、周囲の人間はどうするか?
一人で対処するのが困難だとしても、何人かがその場にいたら、みんなで相談して何とかする、という手も使えるだろう。
けれども、その場に出くわしたのがあなた一人だったら?
居眠りを決め込むか、それとも、勇気を奮い起こしてヤクザに向かって「やめろ」と言うか。
私は別にあなたを責めはしない。あなたと同じく、私もだんまりを決め込むだろうから。
いじめが放置されやすい点はここにある。
みんな、「いざと言う時が来ても、誰も自分を助けてくれない」ことを知っている。大半の人間は卑劣なのだ。
「誰かに助けを求めなさい」とアドバイスしても、助けが来なければ絶望は弥増すだけのことで、現実として、助けは本当に来ない場合の方が多い。
ならば、「誰かに助けを求めて」という優しげだけれども実効力の少ない形だけのスローガンよりも、「自分の身は自分で守れ」という非情な言葉の方が、まだ突発的な事態に対処する準備を予め与えることにならないか。
いや、かつてはそういう厳しい言葉の方が多かったからこそ、いじめる人間だって、相手には対抗する力があることを知っていたのだ。罵倒語は、いじめや暴力の抑止力としての効果もあったのだ。
それを単純に「人を傷つける言葉を規制すれば差別やいじめはなくなる」と判断したことがいかに愚かであったか。それは机上の空論であって、ストレートな暴力を呼び込みやすくするという、全く逆の効果を生んでしまっている。
「死ぬやつぁ死なせろ」も、いざというときに自分を助けてくれる人間はいないという覚悟をしていなければならないという戒めとしての効果があったのではないか。
優しげな言葉の氾濫は、かえっていじめの陰湿化を助長し、いじめられる人間の免疫力を低下させた。
そのことを指摘する識者も数多いのに、誰も言葉の規制に歯止めをかけようとはしない。
だからこう結論付けるしかなくなるのである。
社会の自然発生的な要求として、現在のいじめ自殺は容認されていると。
「バカ」だの「ブス」だの、「そんな人を傷つける言葉は使っちゃいけません」という教育はすっかり浸透してしまっている。
そのために、かつてはたいした罵倒語でもなかったそれらの言葉は、かえって凶器としての鋭さを増してしまった。そしてそれらの言葉が、人を死に追いやっている。
その責任の所在はどこにあるか。
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11月25日(土)
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