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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■子役が大成するには/『諸怪志異(四)燕見鬼』(諸星大二郎)
円形の舞台だから、生で見た時には役者さんがこちらに背中を向けている時には当然、顔の表情は見えない。テレビだとそれをカメラが追ってくれているので、テレビの方がお得のようだが、舞台はやはり一人一人の芝居が舞台全体の空気を作っているものである。切り取られた画面だけではその空気はどうしても伝わらない。たとえ背中を向けていても、セリフを喋っていなくても、その人がそこにいる、それを見ている私たちがいる、その「空気」を味わうことこそが、舞台の醍醐味なのだ。
でなきゃ、誰が東京まで往復の旅費だってバカにならないのに毎年毎年、芝居を見に行くのか、ということなのである。テレビは所詮、舞台の疑似体験に過ぎない。
それなら、テレビで舞台を見ることは無意味なことなのかというと、それも断言はできない。舞台が一期一会のものであることは事実なのだが、視聴者に「テレビに映っていない部分」までも想像し好奇心を抱く心がありさえすれば、舞台の本質が奈辺にあるかを理解することはできるからである。逆に言えば、テレビの舞台中継は漫然と流し見するだけではその魅力の十分の一も伝わりはしないものである。
テレビ中継の意味は、もっと即物的に言ってしまえば、舞台を見るのにはどうしてもかなり高額なお金がかかるから、せめてテレビででも見られればってことの方が重要であるだろう。
若い人はね、すぐに「お金がないから舞台を見にいけない」って言い訳するけどね、テレビ中継が毎週あるのにそれすらもチェックしない人がたくさんいるからねそんなのがウソだってことはすぐにバレるの。つか芝居好きって言うんなら、そんな見え透いたウソついてんじゃねえよ。私が腹が立つのはね、本当は芝居を好きでもないやつ、芝居をやる気がないやつが、そのくせあの芝居はどうの、この芝居はどうのと、批評にもなってない独りよがりな感想を居丈高に一席ぶちやがったりするからだ。
まあ、NHKBSもWOWOWもシアターチャンネルも、全然見られない地上波オンリーのど貧乏な環境にあるから仕方ないんですって言うやつもいるけど、そんなやつに限ってゲーセンにだけはしょっちゅう行ってムダ金ばっかり使ってやがるんだわ。まったく、簀巻きにして那珂川に叩きこんでやりたいよ、マジで。
マンガ、影崎由那『かりん』7巻(角川書店)。
アニメ放映直前発売の7巻だけれど、ここで一応第一部完、といった雰囲気。果林と雨水君の誤解も解けたし、雨水君の「不幸」も一応、なくなったし。アニメはここいらあたりまでを目途に映像化する予定なのかな。小説版も合間に挟めば、充分半年から1年は放送できるだろう。いいもん作ってくれると嬉しいけど、製作のJ. C. STAFF、作品によって作りにムラがあるからなあ。
しっかしまー、あれっすねー、ついに果林が雨水君の血を吸い……じゃなかった、逆に血を送り込んじゃったわけだけど、このあたりのシーンはもう、描写としてはまんま「初体験」っすねえ(笑)。
果林、心臓はどっくんどっくん鳴ってるし、顔は紅潮して涙流してるし、何より震えて痙攣しながら吐息を漏らしてる様子がもう、何というかひたすらエロい。いや、もともと「吸血」は性行為のアナロジーなわけだから、「増血」もまたそれっぽいのは正しいのであるが、作者がそこまで考えてこのマンガを描いているかどうかは知らない。
でも未だにどうして果林だけが「増血鬼」という吸血鬼一族の中の「異端」であるのか、その謎はまだ解かれない。そこがハッキリしないと、へたすりゃ物語全体がアイデア倒れにもなりかねないので、次巻以降、それがちゃんとドラマに絡んだ形で説明されることを期待したい。
マンガ、諸星大二郎『諸怪志異(四)燕見鬼』(双葉社)。
掲載誌であった「漫画アクション」の路線変更および休刊で、連載が途切れてしまっていたシリーズが描き下ろしつきで完結……しなかったけど、続きの5巻は完全描き下ろしで出してくれるのかな? 前巻から小さかった見鬼の阿鬼ちゃんも、立派な美少年・燕青眸に成長した。タイトルの「燕見鬼」は青眸の通称である。
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10月24日(月)
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