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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ぴゅーぴゅーざーざー/『サマー/タイム/トラベラー1・2』(新城カズマ)
 けれども、この小説がさらに「懐かしい」のは、「SFとは何か」だけではなく、「SFがなぜ好きか」って我々の思いを、この小説が持っている雰囲気全てで表現しているからである。しかし、その懐かしさにはそれだけでは終わらない、何とも言いようのない切なさも伴っている。

 主人公の住む「辺里(ほとり)」という町。何とも皮肉なネーミングだが、東京郊外の、何の特徴もない、それこそ「ジャスコ」があることで繁盛しているように住民が思っているような逼塞した町である。でも、日本中にこんな町はありふれている。平凡で無個性な人間が日々時間を浪費するためだけにある町なら、「SFが好き」で現実のつまらなさをイヤというほど感じている、普通の人よりも「ちょっとだけ賢い」若者なら、そこから出たい、「ここではないどこかへ行きたい」と思うのは自然なことだろう。しかし、そういう若者に現実に機会が与えられることなんてない。
 本編での“時を駆ける少女”悠宇(「悠久の宇宙」とはまた素晴らしいネーミングだ)は、何の特徴もない、100人人間がいれば、その中に埋没してしまって全く目立たないような少女である。ところが、そんな少女にタイム・リープ能力が授けられたのだ。そして、彼女は誰も見ることができない未来に向かって旅立って行く。彼女の能力は、「未来に向かってしか発動しない」。そして、卓人たちは彼女に見事に「置いていかれる」のだ。
 即ちこの物語は、「時を駆ける少女」の物語である反面、「置いていかれた我々」の物語でもあるのだ。卓人たちは、確かに没個性な人間たちから見ればちょっとは「賢い」のだろう。ただ時代に流されることを潔しとせず、現代を凝視し未来を展望した。「SFが好き」ということは、即ち自分たちがそういう「目」を盛っているということを意味していた。その目があれば、いつかこの町を出て、自分たちの「本当の未来」を築けると信じていられた。「ここではないどこかへ」行けると思いこんでいた。SFは「未来」の象徴であり、自分たちは「未来の子」であるという自負があった。
 しかし、全ては我々の幻想である。
 SFは今や死に絶え、時代を語るタームとして機能しなくなってしまった。平凡と無個性は、結局は我々にまとわりつき、若さと、夢と、ほんの少しの賢さすら奪っていった。我々には現実を変えることも、未来を築くこともできない、そんな力などもともとないのだということに気づかされてしまったのである。「オタクエリート論」など、何の意味があろう。これは「オタクが置いていかれた」物語なのだ。悠宇が、時間跳躍能力がなければ「平凡な少女」として設定されている皮肉を、我々は噛み締めて読まねばならない。
 卓人は、我々かつての「SFファン」の象徴である。そして、今も我々は「悠宇」から「置いて行かれ続けている」。それが切ない。それが寂しい。ラストの、怒涛のような「未来予測」は、それが当たろうと外れようと、未来が現在の地続きでしかないことを表している。本当に未来に夢を見るためには、悠宇のように「未来に飛び続けるしかない」のだ。それができない我々「凡人」は、ただ「時に置いて行かれる」ことしかできないのである。


 マンガ、大場つぐみ原作・小畑健漫画『DEATH NOTE(デスノート)』8巻(集英社)。
 第二部に入って、ちょっと人気が落ちちゃってるんじゃないかと心配ではあるが、まとめて読んでみるとまだまだ面白い。けれども、対立するライト、ニア、メロの三つ巴の戦いが、これまでのライト対Lの物語よりもインパクトが弱くなっているのは事実である。
 まず第一に、この三者のキャラクターとしての書き分けが明確でなくなっている。「知恵比べ」の難しさは、どちらも同程度の「知恵」を有していると、思考の過程がどうしても似通ってしまうために、キャラクターの内面の差異を付けづらくなってしまう点にある。だからまあ、頑張ってニアには玩具に拘る幼児性を、メロには残虐さを付与しているわけであるが、かえって「取って付けた」感を生み出してしまつている。

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09月06日(火)
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