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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■幻想の絆/DVD『盲獣VS一寸法師』
私が言いたいのは、「躾」という概念自体が既に前近代の、言わば旧式の価値観に過ぎなくなっているということである。現代の親は、子供に相対する場合の価値観を一度喪失してしまっており、「子供の個性の尊重」という美名の元に「放任」以外の対応ができなくなってしまっている。子供は子供で、「放任」にすっかり慣れてしまっているために、そこに改めて旧式の観念である「躾」を持ち込んでも、いたずらに反発するだけになっているのだ。
私は、「躾」が、たとえ親の暴力を伴わなかったとしても、ただひたすら説諭のみを以って対応したとしても、それが親と子の人間関係を結ぶものとしては簡単には機能はしない、という事実を指摘しておきたいのである。
近代と現代が、旧式の価値観と新式の価値観がある瞬間を以って鮮明に切り替わるものでない以上、このような事件が途絶えることはないだろう。
こういった事件を「悲惨な事件」の一言で片付けてしまうことは、我々を取り巻く「現在」を構成する要素の全てが「過去」によって成り立っているという事実を忘れてしまうことになりかねない。現実には過去と現在とは常に絡み合い、脈動しながら未来に向かってゆっくりと進んで行く。状況が激変する中にも不変な分子は必ずあるし、逆に自分が今「常識」で不変のものだと思っている「行為」が、次の瞬間には「暴力」と認定され否定される事態だっていくらでもありうる。
さて、そこで我々は過去の価値観に固執して現在に挑戦を試みるか、現在に迎合して過去を捨て去るか、常にどちらかを選択せざるを得ないわけであるが、将来において果たしてどちらが正しいと判断されるのか、それはまさしくケース・バイ・ケースで、我々の浅薄な予測など的中率はゼロに等しく、蟷螂の斧のごとく裏切られる結果となる場合がほとんどだ。結局、未来予測などは「賭け」のようなものである。
子供を虐待死させるのは論外としても、親は子に一切手を上げることができないのか。「親にだってぶたれたことないのに」は二十年前だったら言った当人の「甘ったれ」な台詞でしかなかったが、今や「正当な主張」となりつつある。子供がどんな生意気な口を利いても、「子供の個性だから」と暖かく見守ることだけが親にできる「躾」なのか。親が子供を殴って、「はずみで」歯が折れたりしても、それは軽く「全治2週間」程度にはなる。そこで子供が訴えたら、親はやはり懲罰を受けることになるのか。
それでも親が子に何かを躾けようと思ったら、自らが破滅する可能性も視野に入れた上で「賭け」るしかあるまい。
しかし私には、カルト宗教の事件なども、親がそうした「賭け」に敗れて子供が野放しになってしまった結果であるように思えてならないのである。
高野連が、昨17日、喫煙及び部内暴力で甲子園大会への出場を辞退した明徳義塾(高知)を初め、秋季県大会への参加を差し止めた四校を発表。明徳義塾以外の三校は、熊本学園大付(熊本=複数部員の部内のいじめ)・松本第一(長野=複数部員の喫煙、飲酒)・鶴ケ島(埼玉=複数部員の万引き、飲酒)。
全国でたった三校かよ! ウソつけ! というのが偽らざる心境であるが、なんだかこうなると本当に「正直者はバカを見る」の世界だよなあと、高校野球界の腐敗ぶりにもはや嘆息する気すら起こらない。処罰された学校はまさしくスケープ・ゴートであって、一応、これで健全化は図ってますよというポーズだけは取った形になる。
けれども、自分ところの不祥事をほっかむりして、いけしゃうしゃあと健全なる球児でございという顔をしているやつらは処分された学校の何十倍、何百倍あるか分かりゃしないのだ。もしも高野連が「本気で」不祥事撲滅の大鉈を振るったなら、全国大会はおろか、地方大会大会すら満足に開けなくなるのはまず間違いがないのである。
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08月18日(木)
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