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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■おしまいはおしまい/DVD『ベルヴィル・ランデブー/老婦人とハト』
今回も、「黙祷呼びかけ中止」「選手の抗議」、この二つの事実だけで、実際のやりとりがどうだったか、記者は勝手に想像して記事を書いたと思われるが、その時点でもう記者のアタマの中では「記事」は「事実」であると変換されてしまったのだと思われる。
「高野連が黙祷呼びかけを拒否した? それはヒロシマの記憶が風化しているせいだな? きっと乱暴な口調で選手たちを傷つけるようなことを言ったに違いない。『ヒロシマなんて関係ない』とかそんなことを言ったんだろう」
そう思い込んで取材をし、選手が仮にちょっとでも「ニュアンスとしてはそんな感じです」とでも言おうものなら、もうその発言は「事実」ということになってしまう。恐ろしいことのようだが、これは日常の人間関係でもしばしば起こることで、まさに言葉というものが「受け取る者の恣意によって決定されてしまうもの」であることの一つの事例でしかない。
注意しなければならないことは、新聞や雑誌、マスコミの流すニュースの言葉は、程度の差はあれ100%例外なく基本的には「捏造」であるという認識を持つ必要があるということだ。「捏造」という言葉が過激過ぎるなら「演出」と言ってもいい。「どこそこで事故があった」とか「誰それが何をした」という基本的なことは事実であっても、それを報道する側の姿勢の中に、「このニュースをこのように見せよう、聞かせよう」という「演出」が混じるのである。
今回の件はその「演出」が「見え透いて」いたから、すぐにバレた。事件としてもそう大したことはないから、収束させるのも簡単だった。しかし、これが「政治的な事件」だったらそう簡単にはいかない。たいていの国民は政治に関してはシロウトであり、騙されないように気をつけていても裏を返されて騙され、真実に気付いたと思ったらまたそこには裏があるという二重三重四重五重のウソに翻弄されてしまうからである。
「騙されないでいられる国民はいない」、これが政治における唯一の真実である。だからまあ、私はこの日記ではできるだけ政治的なことを書くのは避けているのだが、世の中には「自分には政治的な判断力がある」と思い込んでいる御仁はやたら多いのである。裏の裏まで見通しているのだと自信ありげな人は多いのである。虚飾を剥ぎ取ったその向こうには必ずたった一つの真実があると信じている人は多いのである。
「自分が事実として受け取っているものも実は虚構である」という認識を前提として持っておかなければ、いざその虚構によって自らの立場が侵食されるような事態が生じたとき、その虚構を捨てられなくなってしまうのだけれどもね。「あの人は私を裏切ってほかの人のもとに走ったけれども、本当は今でも私のことを愛しているのだ」とか。いや、なんか卑俗な例で落としてしまいましたが、別に他意はありません。ホントよ。
DVD『ベルヴィル・ランデブー』。
まあ、以前の日記でも散々褒めちぎったから、再度内容を繰り返すことはしないけれども、DVDの画像の明晰さと言ったら、劇場版以上に艶やかだったんで驚いた。映画を見たときは人物の顔とかがやや平板に見えてたんだけれども、発色がハッキリしたおかげで、かなり立体的に見えるようになっているのである。
解説書も微に入り細に入り、特にミルクマン斎藤さんが「見所」を逐一指摘してくれていたので、「そうだったのか!」と気付いたことも多い。
最初のモノクローム映像のシーンで、ワンカットだけギターを弾いていたのがジャンゴ・ラインハルトであるとか(だって一瞬だったんだもん)、ホッテントットが踊ってると勘違いしてたのがジョセフィン・ベイカーであるとか(あんな踊り方してるとは知らなかった)、タップを踊って靴に食われたのがフレッド・アステアであったとか(ジンジャー・ロジャースと一緒に出てきてくれれば分かったのだ。だって顔が似てないんだもん)。
シルヴァン・ショメ監督の前作『老婦人とハト』の主人公の警官がカメオ出演していたことにも気が付かなかった。こういったことは「遊び」だから、作品の価値と直接的な関係はないわけだが、気が付けば気が付いたで新たに「発見」できることも多い。
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08月09日(火)
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