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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■日本人の「常識」/映画『妖怪大戦争』
> 最新デジタル・テクノロジーではなく、あえてチープなアナログ感漂う着ぐるみ&特殊メイクを前面に押し出して妖怪を映像化した選択は悪くない。ひょんなことからひ弱ないじめられっ子から妖怪界の救世主、麒麟送子(きりんそうし)に祭り上げられる人気子役、神木隆之介もはまり役で、特大サイズの剣をふるっての大奮闘を披露。妖怪に出くわすたびに愛くるしいびっくり顔を浮かべ、女妖怪、川姫のむっちりとした太股に悩殺される彼の熱演を眺めているだけでも楽しい。
> しかし神木君を取り囲む妖怪たちがはしゃぎすぎで、“大戦争”が繰り広げられるはずのクライマックスはさながらほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会といった風情になってしまい、緊張感は皆無。せっかく神木君扮する主人公タダシが捨て身で勇者へと成長を遂げたというのに、彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこけるというオチにも拍子抜け。愉快なエンターテインメントではあるが、締めるべきところは締めてほしかった。

 ここまでトンチンカンだともう笑うしかない。
 そもそも妖怪たちには加藤保憲(豊川悦史)と戦う意志も力もないということにこのライター氏は全然、気がついていない。一緒に戦おうと仲間に呼びかけても、ほとんどみんな臆病風に吹かれて逃げて行ってしまう(このあたりのシチュエーションは『鬼太郎』版『妖怪大戦争』へのオマージュ)。だいたい呼びかけ人になっている猩猩(近藤正臣)、川姫(高橋真唯)、川太郎(阿部サダヲ)の三人(匹?)が、自分たちで戦う気などサラサラなくて、だからこそ稲生家の子孫であるタダシ(神木隆之介)に「麒麟送子」の役目を押し付けているのである。
 その「麒麟送子」が結局は役立たずなのも、彼が所詮は憎しみや恨みに支配されてしまう「人間」に過ぎないからで、「捨て身で勇者へと成長を遂げた」りなどしてはいない。加藤保憲が「人間の憎悪」を糧にして東京の破壊を試みようとしている以上、タダシは最初から最後までカトウに利されるだけの存在でしかないのである。
 人間の努力を鼻で笑い飛ばすように「彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこける」からこそ面白いのである。最終的に加藤を倒すのが人間・佐田(宮迫博之)と妖怪・小豆洗い(岡村隆史)の“最も無力な”コメディアンコンビだという点にこの映画の人を食った(いかにも妖怪らしい)「粋さ」がある。それを感じることができないというのは、これもやはり「素養」がないからなのである。
 「締めるべきところは締めてほしかった」なんて、ちゃんと締めてますがな。「小豆」の伏線もちゃんとじいちゃん(菅原文太。ボケ演技はこの人にしては名演技)が張ってくれてるし、だからこれは伝承や習俗に拠ってる映画だから、妖怪映画として最も適切な終わり方をしているのである。ウソをついて「大人」になったタダシに妖怪たちの姿が見えなくなるってのも、ちゃんと「座敷わらし」の伝承を受け継いでいるのである。あれを否定するのなら、『となりのトトロ』も否定しなさい(別の意味で私は否定するが)。
 ……そう言えば、ぬらりひょん(忌野清志郎)がタダシに向かって「お前、靴が破れたからって捨ててるだろう!」と説教するシーンを見て、「靴が破れたら捨ててもいいじゃないか! 理不尽だ!」と怒りの意見を書いてた人がいたが、これがその理不尽さを狙った「ギャグ」だって気付いてないんだなあ。昔から「化け草履」とか、古くなったモノがこういう「付喪神」になるって感覚はこれも常識的な習俗としてあって、別に「もったいない」という感覚とは関係がないのである。モノは理不尽にも妖怪になるものだって素養がないからギャグの一つも分からなくなっちゃうのだよ。

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08月07日(日)
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