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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■60年間の原爆/舞台『おじいちゃんの夏』
 しかも、同じ番組に、あゆみのクラスメートで目黒組組長の娘・もみじ(小沢真珠)も出演が決まっていた。子分の桜田しじみ(高木珠里)を従えて親分気取りのもみじは、何かというとあゆみにライバル意識を持って突っかかってくる。今回も太宰をパートナーに、優勝を狙っていたのだ。なんとかトラブルを回避したいあゆみだったが、担任の高崎先生(粟田麗)はちょっと天然が入っていてあまり頼りにならない。
 結局、あゆみのパートナーになれるのはおじいちゃんしかいない。友達の坂本健太(小野ゆたか)に協力してもらって、クイズの特訓に明け暮れるが、おじいちゃんは普通の会話もままならなくなっていて、前途は多難。しかし、そこに思いも寄らない「奇跡」が起こったのだった……。

 一言でまとめちゃうと、G2版『アルジャーノンに花束を』って印象。ちょっとネタをバラしちゃったかな。
 ファミリー演劇も、人情喜劇も初めてで勝手が違ったのかもしれないけれど、果たして「演劇」として作らなければならない物語だったのか、むしろ映画にした方が面白かったのではないかという疑問が残る。
 小須田康人がメイクで老人に扮しているわけだが、これは本当に60代くらいの役者が演じた方がボケの面白さは表現できるだろうし、子供たちだって本当の子供が演じた方がいい。女の子はまだそうでもないが、サカケンを子供に見立てろというのは、ちょっと無理がありすぎる。子供向けの芝居というのはよりリアルを追求しないと逆にそっぽを向かれてしまいかねないということに、G2さんは気付いていないのだろうか。
 「小学六年生」のもみじが、オトナの女性に変装しておじいちゃんを誘惑する、という設定も、演じているのが色気ムンムンの小沢真珠だから、元に戻っただけである。“これではギャグにならない”。現に、ここで会場の子供たちはほとんど笑っていなかった。「だってオトナじゃん」って感じるばかりで、シラケてしまうのである。小学六年生なら本当に大人っぽい女の子もいるから、実際にそういう子を探し出してきて演じさせた方が、「えっ、この子が小学生なの!?」って驚きを共感できるわけで、そっちの方が面白いに決まっているのだ。役者がいくつかの役を演じ分けているのもこの芝居の場合はいただけない。
 小須田さん以下、役者の皆さんは決して下手ではないし、熱演もされているのだが、申し訳ない言い方になるが努力が空回りしている。これはもともと「企画のミス」なのである。
 児童演劇がその観客対象である子供たちからかえってそっぽを向かれてしまうのは、大人には通じる「見立て」が子供には通じにくいのだということを充分に理解していない点に原因があることが多い。子役をそんなに抱えられないという物理的な事情もあるのだろうが、こういう点に気を配っている児童劇団って、実は少ないんだよね。児童劇、ファミリー劇について言えば、原則として「大人は大人の役しかやれない」のである。「大人が何を子供のフリしてるんだ」って思わせちゃダメだってことを認識しないと、結局児童劇は他の演劇から一等低いものとしてしか扱われないのである。

 物語自体は本当に「いい話」だと思うのである。
 おじいちゃんはもうすぐ「逝って」しまう。それは冒頭のおばあちゃんの死からも予測されていたことだ。おじいちゃんの寿命が尽きるあと3年、わずか3年のうちに、あゆみに伝えておかなければならないことがある。
 それは、目に見えて崩壊していく息子や孫たちの間に、「見えない絆」が実はあること、そのことに気がついてもらうことだ。おじいちゃんとおばあちゃんがお父さんやお母さんを愛し育て慈しんだように、どんなにだらしなく見えてもお父さんとお母さんがあゆみを愛しているのだということに気付いてもらうことだ。
 家族の崩壊が如実に現れている現代に、この芝居が訴えているものの意義は大きい。そしてその「絆」は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるから、どうしても「おじいちゃんの口から語られねばならない」のである。
 そのことを考えれば、「年寄りのフリをした」あるいは「子供のフリをした」役者がこの芝居を演じることに欺瞞の匂いが漂ってしまうことにはどうしても避けることができないのである。


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08月06日(土)
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