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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■『Zガンダム 星を継ぐ者』再論/『神様ゲーム』(麻耶雄嵩)
 「再編集映画」になぜ新作画が必要になるのか、“新作画を一切使用しなかった”アニメをいくつか思い浮かべていただければその理由は見当がつくのではないかと思う。例えば、『宇宙戦艦ヤマト』はデスラーとの最終決戦をカットし、『未来少年コナン』はなんと「ギガント」のエピソードをまるまるカットしてしまった。そんなデタラメな事態を引き起こしたのは、新作画がシーンとシーンの間の省略された部分をうまく繋ぐ「ブリッジ」として機能せず、映画の「尺」を調整できなかったためである。即ち、日本の再編集アニメにおいては、新作画はもっぱら物語の省略と繋ぎのために使用されてきたのだ。
 『星を継ぐ者』においても、「新作画」は「ブリッジ=尺の調整」としての役割を果たしてはいる。しかし、わざわざ「新訳」と名乗ったのは、単に1時間半の時間内に映画を収めるためばかりではなかった。旧作の設定や意味を組み変え、21世紀のガンダムファンに送る新作として『Z』を再生させるためには、「旧作画と新作画のコラボレーション」が絶対に必要だったのである。
 例えば、幽閉され監視を付けられ不遇をかこつアムロがカツに罵倒された後、エゥーゴと行動を共にするまでの過程は一気に省略されるのだが、その間を繋ぐブリッジのシーンは、フラウがレツとキッカと共に旅立つ新作画のシーンである。ここでどうして新作画が必要になったか。
 テレビシリーズではこのときフラウはレツとキッカの間にいて、二人を抱き締めている。ところが新作画ではフラウは二人の横にいて、目は彼方を見つめているのだ。この違いは何か。旧作では再び戦場へと向うアムロに対してフラウの心は既に離れてしまっている。彼女は、カツもアムロに奪われ、残されたレツとキッカもまたいずれは戦乱に巻き込まれていくのではないかという不安に襲われており、だからこそ二人を抱き締めずにはおられなかったのだ。このようなフラウの姿を見せられては、視聴者はどうしたってアムロの身勝手さ、カツの幼さを感じないではいられない。あるいは逆にフラウの方が男の陰で過剰に被害者ぶっているように受け取る人もいるかもしれない。どちらにせよ、彼らの心がバラバラになっていることは間違いないのである。
 だが、新作画のフラウは、戦争に対する不安を抱きつつも、アムロを、カツを戦場に送り出す「勇気」を持っている。アムロがなぜ再び立ったのかも、カツがなぜアムロと行動を共にしたのかも理解している。彼女の目は、決して戦争の現実から逸らされてはいないのだ。
 この新作画ゆえに、アムロは旧作のような単純に鬱屈したキャラとは見えなくなった。幽閉されていたときすらずっと脱出の機会を狙っていた人物として描かれ、そして彼の後ろには今でも「ちゃんとフラウがいる」ことが明示されることになったのだ。
 アムロは決して孤独な存在ではない。つまり、『ファーストガンダム』で、アムロが最後に「僕には帰るところがある」と言った言葉、これがまだ生きていることを、20年の時を経て、ようやく富野監督は示してくれたのだ。ここで感動しないのなら、その人はガンダムファンを名乗ることを止めたほうがいい。
 これは、「旧作画と新作画の融合」があったからこそ成立した効果である。富野監督には「新作画」だけで長編アニメを作る意図はもともとなかったし、また、「旧作画」だけで「新訳」が成立するとも考えていなかった。『星を継ぐ者』はそのことを前提として批評しなければ、適切な評価は下せない。「旧作と新作の落差がひどすぎ」とか「新作画だけで作れ」という不満が印象批評の粋を出ないものであり、映画の本質を見ていないのはそのためである。

 一回しか映画を見てないでここまで言い切るのもなんだなあとは思うのだけれど、DVD買ってもう一度見直したら感想変わるかもなあ。でも、万が一、富野監督が将来予算を潤沢に与えられて「完全新作のZガンダム」を作ったとしても、現行の『星を継ぐ者』が否定されたことにはならない。与えられた条件のもとで「最善」の作品を作る。そうして完成したのがこの映画だからだ。どんなに作画が荒れようが、テレビアニメの歴史はそうやって紡ぎあげられてきた。それを忘れて文句を付けているやつらは、テレビアニメに対する愛を忘れているのである。



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07月26日(火)
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