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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■いつものことだけど/映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』
 私はそういうオタクオタクした客の中でもみくちゃにされながら映画を見るのも大好きなのだが、しげはそうではないので今回は混雑を避けることにした。前売り券を買うのも嫌そうな気配だったので、特典グッズも諦めた。でも座席はど真中に悠々と座れた。パンフは後日、頃合を見計らってまた買いに来よう。

 テレビアニメシリーズは賛否両論喧しくはあったが、私は「うまいところにオチをつけたな」という印象であった。原作との単純比較は何度も繰り返している通り不毛で無意味である。
 ファンタジーが最終的にパラレルワールドSFに強引に捻じ曲げられたという批判もあったようだが、「錬金術」を「等価交換」を基本法則としたありうべき科学の一つとして設定していたことで、この物語は当初から「パラレルワールドSF」として成立していた。それは原作とアニメが共通して持っている基本設定でもあった。
 「SF」というテクニカルタームが、既に物語の魅力を語るものとして機能していない現在、『鋼の錬金術師』が「SF」であることに気付いていなかったファンも多かったのではないかと思う。もしかしたら原作者すら「SF」と意識せずに描いていたのかもしれないが、少なくとも脚本家の會川昇と監督の水島精二の二人はSFであることを強く意識してテレビシリーズを制作していたと思いたい。若いファンには「SF」なんて「死語」に拘る必要ないじゃないかと言われそうだが、「SF」とは既成概念・固定観念に囚われることから脱却するための「手法」である。常識的な展開をひっくり返したり可能性の未来を提示したりすることで、我々の精神がいかに思い込みに支配されているかを鋭くえぐってくれるからこそ、そこに限りない魅力を感じるのだ。
 『鋼の錬金術師』のアニメスタッフは、最終回に至る流れの中で、「等価交換」という原作の根幹をなす設定すら反転させて、人間の生き方に「絶対」はない、という形を示してくれた。だから、たとえエドとアルが二つの世界に分断されようとも、ウィンリィの元にエドが帰らずとも、彼らは空に手を伸ばし、自分の足で歩いていくことをやめはしないから、あれは紛れもなく「ハッピー・エンド」なのである。

 テレビシリーズの最終回には、脚本の會川昇の「思想」が色濃く表れていると思う。
 表面的なハッピー・エンドを好まないのはこれまでの脚本作品からも判読できるし、無理にひねって尻切れトンボに終わることもままあるが、『鋼の錬金術師』の場合は原作の展開から離れてもうまくオチが付けられたな、と思っていたのだ。
 アルは体を取り戻した。しかし、兄との旅の記憶をなくし、兄もまた別の世界にはじきとばされた。何かを得、何かを失う。聖書の昔から人間が宿命的に追わされている「犠牲(サクリファイス)」の物語。それでも人は生きていく。その決して諦めることのない「希望」の道は、既にテレビシリーズで充分に語り尽くされたのではなかったか。
 即ち、あれから先、どんな展開を考えようとも、全てはこれまでの物語の拡大再生産にしかならないということである。「続編」を作ってどうするのだ、それともこちらの浅薄な想像を吹き飛ばすほどの新奇な展開をアニメスタッフは考えついたというのか、というのが、私の映画を見る前の期待と不安であったのだ。

 こういう場合、「期待」はまず叶えられることはなく、「不安」はたいてい当たる。前情報でテレビアニメシリーズの「続編」と謳ってはいたが、「完結編」とはヒトコトも言っていなかったことも不安を弥増していたが、劇場版はあからさまなほどにテレビシリーズの拡大再生産になっており、その精神において新しいものは何一つ加えられてはいなかった。これは明かに「更なる続編」を狙っている。

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07月24日(日)
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