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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■おお・それ・みよ!/映画『機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者』
 チラチラ聞こえてくる会話を聞いていると、たいていの観客が『ファースト』も『Z』もテレビシリーズを見た上で来ている。しかしその会話内容は幼稚で、旧作画との落差とか、どのキャラのデザインは気に食わんとか、そんなんばっかである。脚本や映像演出について語っている連中は殆どいない。オレたちが20代のころにはもうちょっと身のある会話してたよなあとは思うが、それも「葛藤のない享受」をしている若い人たちには無関係な旧世代の愚痴に過ぎまい。

 かつての『ファーストガンダム』劇場版三部作はそれぞれ2時間20分ほどの長尺を要した。しかし今回の『Z』第1作は1時間35分。当然、テレビシリーズ14話分のストーリーを全て語ることは不可能なのだが、ではこれがダイジェスト版になっているのかというとそうではないのだ。これは声を大にして言いたいのだが、本作はあくまで富野由悠季監督による「ディレクタ―ズ・カット版」なのである。だから、「テレビシリーズを見てないとわけがわかんないよ」という批評・感想は、全てこの映画の表面をなぞっただけの浅薄で半可通な意見でしかない(『ファースト』は見てないとつらいだろうが、『Z』を見ておく必要はない)。
 一つ例を挙げるなら、主人公であるカミーユの登場シーン、これが映画では一切使われていないのである。カミーユの映画での初登場シーンは既に拘束された後、脱出のシーンからである。あとでジェリドをぶん殴るシーンが回想としてチラッと出て来はするのだが、なぜカミーユがそんな暴力を振るったのかは最後まで全く説明されない。説明不足じゃないか、と憤慨するのはお門違いで、ティターンズの横暴は再三再四描かれているので、カミーユの拘束も、“映画上では”「民間人が何か軍人から横暴なことをされたのだろう」としか見えない。というか、そう見るべきなのである。
 カミーユがシャアを「そんな大人、修正してやる!」と殴るシーンもカットしているので、当然これは「カミーユはシャアを殴らなかった」と解釈すべきなのだ。見事なくらいにカミーユの「いやな部分」がカットされている点だけを取ってみても、本作が「ダイジェスト版ではなくディレクターズ・カット版」になっている所以であるのだ。詳細はもう語ってたらキリがないから省くしかないが、ともかく全編に渡って、あの「陰気アニメ」がこんなに「気持ちのいい」アニメになっているとは、なんとまあ。
 だから、テレビ版との違いをいちいち挙げることは、本作の魅力を挙げる一助になりはしても、本質を描くことにはならない。恐ろしいことに富野由悠季の演出力は、60の坂を超えてまだ進歩しつつある。これも富野御大がこれまでに映像演出の本を何度となく表しているお陰で理解できるのだが、ラストの延々と続くバトルシーン、『逆シャア』でも『F91』でもその演出理論が優れているにも関わらず具体的な映像としては有効に働かせられなかった失敗、簡単に言えば「誰と誰がどの機体でどうやって戦っているか分からない」状態だったのが、本作では実にスムーズに「分かる」のである。
 一つはあの「画面切り取り」の演出がスライド式に変わり、唐突で説明的に見えていたのが軽減されスムーズに見えるようになったことも大きいだろう。単純に見えるが、あれは面白いアイデアではあったが、実は映像の流れをかなり滞らせていた。
 しかし工夫はそれだけでなく、カットからカットへ移行するときのモビルスーツの動線が「見えるようになった」ことが一番の進歩だと思う。

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05月28日(土)
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