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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■井筒監督は「拉致はなかった」なんて言っちゃいないよって話/映画『真夜中の弥次さん喜多さん』
 このあたりの発言がかなり「要約」されているのは、恐らくは朝鮮日報について「都合の悪いこと」が書かれていたからだろう。「教条主義」というのが何を指しているのかが曖昧になっているが、これが井筒監督の出身地である「大阪の教育」という現場を考慮に入れてみれば、典型的な戦後民主主義教育、サヨク教育であることは容易に察しがつく。サヨク批判の部分はぼかさざるを得ないのだ(全くカットしてしまっては、井筒監督からクレームが来るだろうから、「紙面の関係で要約」という姑息な手段を取るのである)。
 ピカソの『ゲルニカ』を引用しているのもその推測を補強するもので、井筒監督の世代なら、当然、1988年に起きたいわゆる「ゲルニカ事件」のことも知っているだろう。福岡市立長尾小学校の卒業式で生徒たちが壇上に『ゲルニカ』を掲示しようとしたのを校長によって日の丸に差し替えられ(『ゲルニカ』の絵自体は式場後方に貼られたそうで問題はないと思うのだが)、それを卒業生の女子の一人が式の真っ最中に突然立ち上がって抗議し始め、また、女子の発言を制止しようとした校長を教員の一人が恫喝し、戒告処分を受けたという事件である。その教員というのがまたコチコチのサヨク教師だったものだから、この女子が「洗脳」されていたことは想像に難くないのである。
 だが、『ゲルニカ』はそもそもそんなひ弱な思想のサヨクに利用されるような芸術作品ではない。ピカソがナチスドイツによるゲルニカの町の空爆の悲劇を、わずか20日あまりの製作期間で一気に描いたのは、もっと根源的な、戦争という人間の業を描かないではいられなかったからである。井筒監督が「人の苦しみに寄り添う芸術」として『ゲルニカ』を自身の映画の根本にあるものと引用している以上、それは単純な「サヨク」芸術の範疇に留まるものではないのだ。

 まあ、右寄りのみなさんもさ、井筒監督が「言ってもいないこと」に難癖付けるんじゃなくて(繰り返すけど、「拉致なんてない」とも「拉致られても当然だ」とも言っちゃいないよ)、言ってることに対してちゃんと文句を付けようね。でないと「ただの馬鹿」と見なされるのは自分たちのほうになるよ。仮に井筒監督自身が在日朝鮮人で拉致に関連してたとしても(そうは思えないが)、『パッチギ!』は決して北朝鮮を正当化するような映画にはなってなかったので、素直に誉めたいと思う。……なんかこんなふうに書くと『パッチギ!』がよっぽど気に入ったのかと思われそうだけど、「面白さレベル」で行けば実は「まあ普通」なんだが(笑)。


 今日はしげとは博多駅で待ち合わせ。
 ヤマダ電器でDVDを買って、「しーじゃっく」で回転寿司。
 そのあと、今日で最終日の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』を見に行くつもりだったのだが、しげの体調があまりよくない。今日の昼間、ラクーンドッグさんたちと「エコロジーな缶詰ワールド」の次回公演の打ち合わせをしていて、かなり疲労したそうである。「寝不足だしきついんだよ」と言うが、私だって毎日のようにしげの「スリーピング・バイオレンス」の被害に遭っているので、3時間くらいしか寝ていないのだ。でも無理強いしたってしようがないし、必ずしも評判のいい映画でもないから(笑)、私一人で行くことにする。
 しげの話によれば、ラクーンドッグさんも『弥次喜多』は見たがっていたそうで、「今度みんなで一緒に見に行こう」とか相談していたとか。それなら、最終日であることを教えて差し上げれば、一緒に見に行けるかとも思ったのだが、しげに連絡を付けさせてみると都合が悪くて無理とのこと。残念だったが、ドッグさんも見たい映画のスケジュールをとんと調べていないというのは呑気なことである。つか、そういう「習慣」がない人みたいね。血液型O型かなあ(笑)。
 しげが捨てられた子犬のような目で「どうしても一人で行くと?」とグスグス鼻をすすりながら私を見るものだから、私のココロの中でも「どうする? アイフル?」と声がしたが、もちろん袖を振り払うように見捨ててキャナルシティへ。


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05月20日(金)
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