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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■変態天国/映画『黒薔薇の館』
夜、シネ・リーブル博多駅で、『カルト渦巻地獄劇場』の第4弾、深作欣二監督作『黒薔薇の館』(1969年・松竹)。
チラシに「MIWA meets TAMURA」とある通り、主演は実輪明宏(当時は丸山明宏)と田村正和。どれだけ濃いドラマが展開されるかとつい期待してしまうのだが、正直,映画の出来はやや肩透かしなものだった。
物語は佐光喬平(小沢栄太郎)という老人の独白から始まる。彼が経営するクラブ「黒薔薇の館」に、毎夜8時にどこからともなく現れ、11時にはどこへともなく消える謎の女、藤尾竜子(丸山明宏)。ただならぬ妖艶な雰囲気を身に纏った彼女は、純粋至上の愛の歌を披露し、館に集う男たちを陶酔させていた。佐光もまた、常に黒薔薇を手に持ち、真実の愛が得られたとき、その薔薇は赤く変わると信じて疑わない彼女の魔性の魅力に囚われていく自分を押さえきれなくなっていった。
しかし彼女は男どもを破滅される女でもあった。彼女の元夫だと名乗る大友(西村晃)、横浜での恋人だったと称する青年(川津祐介)、神戸での恋人だったと称するマドロス(内田良平)が現れるが、竜子はその誰にも「知らない」と言ってあしらう。青年は失意のあまり自殺し、マドロスは竜子の取り巻きの混血少年のジョージ(城アキラ)と決闘し、死んだ。大友はその惨事を見て「ロマンは死に絶えた」と言い捨て、館を去っていく。
ここまでの前半、物語は殆ど黒薔薇の館以外に出ず、回想シーンとのつなぎのみで実に演劇的に進行していく。3人の男が次々と現れ、しかし竜子の正体はいっこうに知れないという展開はスリリングで、台詞も極めて演劇的、特に西村晃のハムレットもマクベスもかくやという狂気の愛を語る弁舌は、濃い芝居が苦手な人には辟易であろうが、私には楽しめた。
しかし、この映画の弱点は既にここで表れていて、つまりあまりに演劇的で映画としては破綻してしまっているのである。そもそも、美輪明宏という存在が映画には向かない。失礼を省みずに言わせてもらえれば、いかに美輪さんが美しくても、本物の女には見えない、誰もが彼女は男であると認識しているはずである。だからこそその妖しさは「見立て」の芸術である演劇においてはその魅力を倍増させるのであるが、映画ではどうしても「なぜ登場人物たちはあの女が本当は男だと見破れないのだ?」と訝ることになる。まあ、美輪さんのネツレツな信奉者ならばそれでも騙されてくれるのだろうが、特にそうでないヒトにとっては、美輪明宏賛美賛美賛美のこの映画は見ていてかなり苦痛であるだろう。しげなんぞは「オレ、『美輪明宏歌と踊りのショー』を見に来たわけじゃないよ」と憤慨していた。
美輪明宏を映画でも魅力的に描く方法がないわけではない。つまり見たまんま「ゲテモノ」として描けばいいわけで、ゲテモノであると知りつつも惹かれていく倒錯の愛を描けばよかったのである。美輪さんをあくまで女として扱おうとするから、おかしなことになるのだ。こんな映画と演劇の初歩的な違いにも気づかない無能な監督に脚本・監督をやらせることがそもそもの間違いで、全く深作欣二の映画にはホントにロクなものがない。
それでも前半はまだ「見れる」方で、後半になるともう物語は退屈なだけになる。新登場の佐光の息子・亘(田村正和)がまるで冴えないのだ。
美輪明宏主演の前作『黒蜥蜴』がドラマとして成立しているのは、黒蜥蜴に対抗するキャラクターとしての明智小五郎が、美輪明宏の「魔性」に対して、「知性」で拮抗していたからである。それがこの若き日の田村正和には全くない。親に愛されていないと思いこんだただのすね息子で、キャラクターとしての魅力は殆どないに等しい。彼もまた、前半に登場してきた馬鹿男たち同様、結局は美輪明宏に対する無条件の信奉者の一人に過ぎず、だから二人が死の逃避行をはじめても「いきなり何で? どうしてこいつと?」という疑問ばかりが渦のように浮かぶばかりなのだ。後半、美輪明宏の魅力がどんどん下落していくのは、「こんな馬鹿を愛するのなら、この女もたいしたやつじゃないな」と思わせてしまう点に原因がある。
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05月12日(木)
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