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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■深まる溝(ずっとヒビキ風タイトルで行こうか)/映画『コックリさん』
井狩警部役の緒形拳、これを『殺人狂時代』のころの仲代達矢が演じていたらどうであったか。緒形拳に風格がないとまでは言わないが、仲代達矢が演じておれば、その茫洋とした演技がかえって見えない犯人との間に緊迫感を醸し出しえたのではなかろうか。健次役の風間トオル、これを『肉弾』のころの寺田農に演じさせられたら、若いというだけでは収まりきれない命のほとばしりのようなものを感じさせて、役にもっとハマっていたのではないだろうか。ヘリの操縦士の高野、本田博太郎の演技はわざとらしすぎやしないか、同じ演技をさせたとしても、『独立愚連隊』のころの佐藤允だったら、「粋」に演じてくれたのではないか。橋本功の刑事も「フガシね!」と繰り返すあたりは力みすぎだ、これが堺左千夫か大木正司だったらもっとサラリと演じてもっと笑いが取れるはずだぞ、などと、いちいちどうしても考えてしまうのだ。嶋田久作の「東京」など、こういう下っ端のコメディ・リリーフならば、『ああ爆弾』の砂塚秀夫が演じるべき役だろう、と言えば、納得してくれる喜八ファンも多いはずである。
主演の北林谷栄ですら、ハマリ役ではあるのだが、撮影時は年を取りすぎている、と感じていた。企画が立てられていた十年前に“ちゃんと”この映画が撮られていたら、もっと台詞にも演技にも切れあっただろうと思わざるをえないのである。正直、岡本映画のリズムを体現していて安心して見られたのは、くーちゃん役の樹木希林くらいであった。
「もしもあの人が……」という仮定は、いずれももはや望むべくもない夢の話であり、日本映画の力が一番低かったころにこの映画が作られたことを考えれば、映画が完成したこと自体を慰めとして、その出来如何については諦めるしかない。つくづく岡本監督に映画を“撮らせないでいた”当時の日本映画界を恨みに思うことである。
こんなことばかり言ってると、『大誘拐』がすごくつまんない作品のように聞こえるかもしれないけれど、岡本監督リスペクトを公言している庵野秀明監督の『キューティーハニー』、樋口真嗣監督の『ローレライ』に比べりゃ、はるかに面白いのである。エンタテインメント映画としての岡本作品は、一等劣るものであっても充分に面白い、そのことを強く指摘しておきたいのである。
夕方に父から電話。急に食事に誘われる。
本当はシネリーブルで『獣人雪男』を見に行く予定だったのだが、仕事を続けるか店をたたむかで姉とモメてる最中なので、無碍に断るわけにもいかない。東宝特撮映画で見損ねている映画はもうこの『獣人雪男』一本になってしまったが、また見る機会を逸してしまった。もしやと思って念のために父を誘ってみたが、やっぱり断られた。
もっとも、昨年、私が入院したときには、父に博多座の「北島三郎ショー」のチケットを無駄にさせてしまった経緯があるので、文句も言えないのである。
「ビッグ・ボーイ」で父、私、しげの三人でミックスグリル。本当は姉も交えて話が出来ればとちょっと期待していたのだが、父は私と姉を合わせようとはしなかった。姉は店の片づけで置いてきぼりである。これは姉に気を悪くしろ、と言っているようなものだ。
父は「会っても話をしてくれる状態じゃない」と言うのだが、本当なのかどうか。父の話だけを聞いていると、姉がすっかり仕事をする気が失せてしまったように聞こえるのだが、そこまで姉が無責任だとも思いにくい。だいたい父は自分では首尾一貫したものの考え方をしているように思い込んでいるけれども、結構その場限りの適当なことを言い散らすことも多いのである。どうせ、「それを言っちゃおしまいよ」的な暴言を吐いて、そこから姉との溝が深くなっていったってことだろうな、と見当はつくのだが、だからと言って父が会わせようとしていないのを私がこっそり会うようなことをすれば、父がまた拗ねることも分かりきっているのである。おおまんなくせに細かいところにこだわる癖があって、そこが生前の母にも「お父さんは何であんなにしつこいかね」と非難されていたところなのである。
散々愚痴を聞かされたあと、マンションまで父を送って帰宅。全く、姉が来ないのなら映画に行きゃあよかった。ぶつぶつ。
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05月01日(日)
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