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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■楽しんでなきゃデマなんて流れるわきゃないのだ。/『物情騒然。人生は五十一からC』(小林信彦)
 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』で、子供時代のひろしが体験したのと全く同じく、私もアメリカ館の月の石が見たくて長い行列に並んだのだが、一時間経っても二時間経っても微動だにしない行列に父は痺れを切らせて、「自分ひとりでも並ぶ」と嫌がる私を無理やり連れて行列を離れたのだ。
 「で、何を見に連れて行かされたかって、住友館の“未来の床屋の椅子”だもんね」と悪態をついたら、「そやったかな? もう覚えとらん」と首をひねっている。自分の都合の悪いことはことほどさように忘れ去るものなのである。


 小林信彦『物情騒然。人生は五十一からC』(文春文庫)。
 「週間文春」連載エッセイの2001年度版の文庫化。
 タイトルの「物情騒然」は「世間の騒々しいさま。不穏なさま」という意味で、これを省略して「物騒」と使うのが一般的なのだが、落語の枕にもよく使われていた「何やら物騒な世の中になって参りましたな」、という言い回し、最近はとんと聞かなくなってしまった。今や「物騒」がすっかり日常化してしまったせいだろう。“ちょっとした”事故や殺人事件では、もう新聞の片隅の囲み記事にもならない。
 それでも2001年と言えば真っ先にあの「9.11」同時多発テロが想起される年であり、いかにもさようなタイトルネーミングであるのだが、小林さんはあえて「ぼくにとって、今年最大の事件はならぬであった」と述べる。もちろん、古今亭志ん朝師匠の死去である。
 恐らくは「全世界を震撼させた大事件と、一個人の死を同列に扱うとは何事か」と憤懣を覚えた人もいたのではないかと思われるが、歴史は国際政治や経済のみで語られていいものではない。志ん朝師匠の死は、日本文化の最も重要な底流の一つが“完全に”消滅してしまったことを示しているのであり、同時多発テロよりもより我々庶民の日常に肉薄している。日本人としてのアイデンティティー、心の拠りどころを失ったに等しいのだ。
 だからこそ私には、小林さんの言が、自己の趣味の世界を偏愛しているだけのオタク的感性の産物ではないことが“分かる”。地方出身者である私にも、志ん朝師匠の使う江戸弁と、それ以降の噺家の江戸弁もどきが「違う」ことは一“聞”瞭然であった。しかし、そのことを“肌で感じられる”世代は、多分、我々四十代が最後なのであろう。悪口ではなく、一つの「事実」として理解してもらいたいのだが、今の若い人たちが、私から見ればとても日本人だとは思えないのも、そういう感覚が“分からなく”なっているからである。実際、「物を知らない」なんてレベルではないんだからねえ。

 もちろん、一つ一つのエッセイを読んでいくと、小林さんの言にも違和感を覚えることも少なくないのだが(最近の「血液型性格診断」に関する肯定的意見(?)などはその例だ)、概ね「そうだよなあ」と納得するのは、人間同士の共感や理解、絆と言ったものが、文化的背景の共有なしではありえない、という視点を七十の坂を越えた小林さんが忘れてはいないからだ。若い人たちがどんなに「自分たちにだって“心”はある」と力説しようが、裏打ちされた文化なくして「心」は育つものではない。『セカチュー』以降、我々から見れば幼稚で安っぽい擬似純愛ドラマでしかないバカ話が流行るのも、その程度で満足してしまえるほどに若い人たちの心が「薄く」なっているからである。小説も、映画も、舞台も、明治のころ(あるいはギリギリ戦前まで)に作られた作品は伝統的文化に裏打ちされていて、現代のそれよりももっと濃密で、それでいて重苦しくはなく、粋だったものなのだが。綿矢りさの『蹴りたい背中』も、その「擬似恋愛」ぶりが若い人たちの(特にオタクの)イマドキな「現象」として面白くは感じられても、小説としては「それから先」を描かなければ意味ないじゃん、としか私には感じられないのである。

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04月27日(水)
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