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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■誰の名前を書きますか/映画『僕の彼女を紹介します』ほか
 以前、日記に書いたことがあったような気がするが、『デスノート』というマンガの怖さは、「もしも本当にデスノートが存在したとしてそれを手に入れたら、自分はそこに誰かの名前を書くだろうか」と自問自答させられることである。『デスノート』の基本アイデアは、藤子・F・不二雄の『ドラえもん/独裁者スイッチ』や『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』『神さまごっこ』と同じで、「絶大な力を与えられたものはどうその力を行使するか?」というテーゼを、最も象徴的な形で凝縮したものだと言える。……さあ、この誘惑に勝てるかどうか、正直な話、私には自信がない。自らの正義を信じて「キ○・○○○○○」くらいの名前は書いてしまいそうになる。もちろんその瞬間に「独裁者」と化すのは私自身であるわけだが。
 「いいじゃん、書いても。殺したいやつがいない人間なんていないだろ? キレイゴト言うなよ」という声も私の心の中にはあるのだが、「絶対に誰の名前も書きたくはない」と考えることは果たして本当にキレイゴトなのか。ノートが実在したとして、それが大量にばら撒かれたら、確実に人間は滅亡する。ノートが夜神月ほか、少数の人間にしか与えられていない「特価」的なものであるからこそ、あのドラマは成り立っている。だとすれば、ノートが与えられた時点で、その人は神、ないしは悪魔に等しくなったようなものだ。脆弱な精神しか持ちえない人間に、果たしてそのプレッシャーに堪えることができるのか? 嫌いなヤツだけを消し去るだけに留まらず、自暴自棄になって全人類を消し去ったのび太のようになるか、筐底の奥深くノートを仕舞いこんで封印するか焼き捨てるか、どちらかになるのが落ちではなかろうか。夜神月は、既に前者の道を歩き始めている。
 自らが神となるか悪魔となるかの選択を与えられて、あえて書かない道を選ぶのは、善人ぶっているわけではない。「恐怖」からの逃走である。

 もちろん、「擬似デスノート」で人が死ぬことはありえない。その事実を前提として知っているからこそ、子供たちは平気でノートを使える。中学生の一人は、「たくさんの友達がデスノートを持ってるよ。勉強に疲れた時とか、嫌いな先生の名前などを書いて遊んでるんだ」と話したという。それはまさしくただの「遊び」にすぎない。しかしおそらく、日本人の大多数がここで、忌まわしく忘れてしまいたい“あの”事件を思い出したのではなかろうか。
 1986(昭和61)年2月、東京都中野区立富士見中学校2年生の鹿川裕史君(当時13)が、「葬式ごっこ」などのいじめのために首吊り自殺をしたあの事件である。事件後、教師も含めて、いじめに加担したクラスの人間たちは、「あんな『遊び』で鹿川くんが死ぬなんて、誰も想像していなかった」と口々に言っていた。「あてつけで死んだんだ」と非難する者さえいた。あの事件を聞いたときに感じた怒りと似たような感情を、今回も感じた人はいなかっただろうか。
 デスノートの流行と、「葬式ごっこ」とは、「遊び」や「冗談」が人間の死に繋がる可能性を考えない、想像力が欠落している点で同根のものであるのだろうか。それとも実際にデスノートの流行で人が死んだわけではないから、これと葬式ごっこは似て非なる別のものであるのだろうか。
 私は二つのものは同質のものであると考える。ただしそれはいじめの加害者やデスノートの購入者に、想像力がないからではない。彼らには逆に、悲しいほどに想像力が横溢しているとさえ言えるのである。

 たとえデスノートが販売されていなくても、自分で勝手にデスノートを作って引き出しに仕舞っている子供たち、あるいは大人は、日本中にたくさんいるのではないか。
 実を言うと私も、「いつか殺してやるリスト」「こいつだけは許さないリスト」なんてのを小学生のころには作っていた。ただし「作っていた」とは言っても、それは「心の中に」であって、具体的にノートに書いておいたわけではない。

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01月29日(土)
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