ID:10788
無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
[491675hit]

■映画をイデオロギーのみで見てしまうことの愚/映画『パッチギ!』
 『ファインディング・ニモ』が「自然を大切に」というメッセージを強く持つ映画であったのにも関わらず、公開後クマノミの乱獲が始まった、という報道を耳にした人は多かろう。観客は映画から「メッセージを受け取ろう」と思って見に行くわけではない。だから全体の構成とか物語とかテーマとか、そういうものよりも印象深い部分的な要素に強く影響を受ける。「クマノミかわいそう」よりも「クマノミかわいい」の感情の方が勝ってしまうことになる。この映画の場合も、笹野さんの名演などがあまりに際だっているので、「映画全体としての主張もそこにある」と勘違いしてしまいそうになるのだ。映画が描いていくのは殆ど「若い世代のケンカの日常」ばかりなのだが、困ったことに、若手俳優が束になっても笹野さん一人の演技に叶わないのである。かと言って、ヘタな役者にあえてこの役を振るわけにもいかない。カメラもその名演に惹き込まれて笹野さんの顔をどアップで映しだしてるからよくないんだが、笹野さんのセリフに「説得力」が生じてしまうのはいかんせんどうにもならない。ともかく映画のディテールにのみ拘って全体を顧みない批評が批評としての意味を持つか、いささか精神のバランスを崩している方はちっとは落ちついて映画を見て頂きたいとだけは言っておきたい。極端な賞賛も非難も、どちらもこの映画の本質を見誤っている点では同じなのだ。
 朝鮮高校と地元の高校との抗争、というのは全国各地で起こっていた現象であって、その根底に過去の歴史が関わっていたことは否定しないが、それが全てでもない。言っちゃなんだが現実のケンカなんて、相手が朝鮮人か日本人かというのは殆ど気にしていないか、あるいはケンカを正当化するための後づけのリクツをくっつけただけで、実際には表層的かつ衝動的な「あいつ気にくわねえ」といった程度の、不良同士の低レベルなものである。この映画でも、若者同士のケンカは殆どそういう形で描かれている。だからたとえ主人公とヒロインが恋に落ちても、グループ同士の抗争が解決されるわけではない。『ロミオとジュリエット』のように、お互いが過ちを認めて最後は仲良くなりました、メデタシメデタシという安易な結末ではないのだ。井筒監督がこの映画を北朝鮮プロパガンダ映画、反日映画として作ろうとしたのなら、こんな結末には絶対にしないだろう。
 「全体」としてはこの映画、お互いの間にどんな問題があろうと、恋したいものは恋をする、政治とか歴史とか知らねえよ、という能天気なまでの「青春映画」である。それをムリヤリ政治の場に引き出して批評しようというのは、八百屋に向かってなんで肉売ってねえんだと文句をつけるくらいの難癖である。
 井筒監督自身は、今の日本の政治に対していろいろ不満は持っているのだろうが、少なくともそれを映画の中にストレートに出すことはしていない。映画をエンタテインメントとして構成する際に、自分の思想の修正も行っていることは明らかである。「オレたち大人は日ごろ、過去の歴史がどうの、現在の政治がどうのと言ってるけど、映画を見にきたお前ら若いヤツラはそんなん気にせんと、好きに楽しんでてええんやで」とでも言いたげなように物語は爽やかだ。井筒監督に対して何か個人的に恨みがある人は、直接、監督に会って文句をつけて頂きたいもので、個人に対する中傷と、映画の批評とを混同させないで頂きたいものである。

 ……とまあ、『パッチギ!』を擁護するような言い方を長々と連ねはしたが、だからと言ってこれが面白い映画だったかというと、そうでもないんのが困ったことで(^_^;)。
 井筒監督は生真面目なくらいセオリー通りのホンの映画を作る人で、しかもその基本にあるのはベッタベタでコッテコテな大阪的人情喜劇である。全体的にソツはないのだが、地味で垢抜けていなくて、ケレン味や意外性の面白さは感じられない。それでも前作『ゲロッパ!』の場合は、西田敏行のジェームス・ブラウンというよくも悪くもものすごいものを見せてくれたのにひっくり返っちゃったのであるが、それ対して、今回はあまりに大人しすぎる。不良同士のケンカも何度も繰り返されると迫力が落ちる。せいぜいオダギリジョーを見ながら「坂崎幸之助」って昔はこんなことしてたのかなあ、と面白がれるくらいか。



[5]続きを読む

01月28日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る