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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■Everybody "moe"Somebody
ディックがたびたび映像化されるのも、別に製作者がSFとしての面白さを狙っているわけではなくて、CGを使った架空の世界を描くほうが、今や製作費の面でも集客力の面でも有利だし、ちょっとばかし「文明風刺」だの「科学批判」だの、映画をちょっとばかし“高尚”に見せかけられる味付けもできてオトクだ、って考えてるだけのことじゃなかろうか。『マトリックス』シリーズと言い、アシモフ原作と呼称する『アイ、ロボット』と言い、それらの映画が割りに「見られる」作品に仕上がっている分だけ、かえってそういうスノッブな「臭さ」がプンプンと匂って来るのである。本来ディックはまさにそういう社会をこそ批判をしていたのだから、観客から見ると何をお手盛りで映画作ってやがるんだ、と嘆息するしかないのである。
私はもう最近はウタダの帯に乗せられた若い連中が、「『アルジャーノンに花束を』ってSFなんですか?」とか言ってるの聞くたびに「もうSFファンは増えなくていい」と痛感してしまっていて、だから「SFとはなんぞや」なんて語る気も全く起こらなくなっている。語ったところで、共通するフィールドがあまりに違いすぎるので、会話が成立しないのだ。
「確かに『ゴジラ』や『ガンダム』は狭義のSFとは言えないね」なんて言おうものなら、「でもSFだろうとSFでなかろうと、おもしろけりゃいいんじゃないですか?」とかいうトンチンカンな答えを返されてしまうこともしばしばだ。だから今はよう、そういう「虚構の本質」について語ってたわけじゃないだろうが。なんで話の次元をズラしたことにお前は気付かないのか? 日本人のディベート下手というのはこういうところにも現れているんだけど、何が始末に悪いって、デタラメな論理を組みたててる本人に「それはデタラメなんですよ」と説明しても、何がデタラメなのか理解する修養を積んでないから、そのデタラメさに全く気がつかないのである。これも日本の国語教育が幼稚極まりないせいであろうが、高校段階で論理学を取り込むくらいのことは本来やらなきゃならないことじゃないのか。
「SFとは分野のことではなくて要素である」というのはSF論を語る上での前提である。これが理解できていないと、たとえば、「『ゴジラ』は『200万年前に海棲爬虫類から陸上獣類に移行する過程の生物』という設定がSFではないが、そこに人類文明の誕生を寓意として盛りこんでいる点でSFである」と説明しても、コンニャク問答にしか聞こえない。「全ての小説・映画はSFであり、また同時にSFではない」というのも事実なのだが、そこで表面的なパラドックスに引っかかってしまって、「じゃあ、SFを語ることに意味なんかないんじゃん」と誇らしげに嘯くヤカラには永久にSFが何かなど理解できるはずもない。最初からSFをバカにしてる連中に、どうしていちいち「SFとは」なんて語ってやらなきゃならないのか。
で、そういう連中が堂々と「SF映画」を撮ったりしてやがるから情けないのである。
11月17日(水)
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