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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■イノセンスな情景/『のだめカンタービレ』10巻
それは実は「愚か」であることと同義語なんだけれども、これは「愚かでなければ生きていくのがツライ」という判断に基づく「世間知」でもあるのである。だって「アタマがいい」ということは無理解も忘却も責任回避もヒキコモリも人生に希望を持つことすら許されないということなのであるから。
逃げ場のない人生、希望のない人生を送りたいなどと誰が思うだろう。「アタマのいい生き方」というのは、実は「絶望」を前提として、「存在が存在していることの意味など、この宇宙のどこにも存在していないことを明確に自覚して生きる」ということなのだ。しかし、仮にそんな生き方を選べば、神ならぬ人ごときが導き出せる解答は結局「絶望」に落ちついてしまう。たとえ愚かと言われようが、この世にある者で「生きたい」という感情に忠実であらざる者は滅多にいない。生きるためには愚かでなければならないというのは、そういうことなのだ。宮崎駿の『もののけ姫』が「生きろ」をコピーとし、「馬鹿には勝てん」のセリフで締めくくられるのは、つまるところは「希望を持つこと=馬鹿であること=生きること」であることを喝破しているのである。
人はいつまでもユメを見ていたいと思う。『セカチュー』みたいに古色蒼然とした「お涙頂戴」映画が未だにヒットを飛ばすというのも、『華氏911』のように「キミにも正義が行える」と甘い錯覚を与えてくれる映画にトロンとしてしまうのも、みんな、現実の絶望と向き合うことから目を逸らしていたいからである。冷静に考えてみればよろしい。この世界に、気休め以上の希望がいったいどこにあるだろうか?
押井監督が「現代人は肉体を失っている。結局人間には『言葉』しかない。肉体だと思っているものだって『言葉』によって規定されたものに過ぎない。その、言葉に規定される以前の、本来の『人間』を回復するためには、肉体に対置する存在としての『人形』をそこに置く必要がある」という、これまでに何度となく述べている『イノセンス』製作の動機を語っているのは、言ってみれば「絶望」を前提として、それでも人間が存在することに意味を求め得るのかという、殆ど解答の出しようがない命題を自身に課しているのと同義であろう。
けれど結局、言葉にだって意味はない。意味があるように見えるものがそこに存在しているだけだ。押井監督がやろうとしていることは、すべからく徒労に終わることが運命づけられている、ドン・キホーテ的行動なのである。だからこそ、『イノセンス』は極めていとおしい映画になっているのであるが。
カンヌ映画祭で無冠に終わった押井監督が、「『映画が好き』と語る人々は“過去”の映画を見ているだけだ」と語ったのを「負け惜しみ」と取る人もいるだろう。けれど実際、受賞した『華氏911』には、新しいものなど何もなかった。あれを評価している人々が、ドキュメンタリーという看板にうまいこと騙されて、単に自分に心地よい幻想に浸りたがっていただけだということに気付くことはあるのだろうか。
09月22日(水)
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