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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■爆発120%!/『カミヤドリ』1巻
 ほかにも「なぜ頼朝は弟である義経を追いつめて殺したのか」「タイムマシンに乗って杉田玄白にインタビューするとしたら」とかいう問題もあって、かつての知育偏重を反省し、歴史をただ知識として覚えるのではなく、その「人間性」にまで迫ろう、というのが主旨であるようだ。斎藤さんはそれを「だれそれの気持ちになって考えるのがそんなに大切?」「『人間性』を主軸にしたら、必然的に『気性』を云々しなければならなくなる」と言って疑義を提しているのである。
 でもこの「三人のうち誰に」っての、私も小学校のころに先生から聞かれたことがあるな。やっぱり5年か6年のころで、今時の若い人はよく知らないかもしれないが、例の「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス(信長)」「鳴かぬなら鳴かしてみしょうホトトギス(秀吉)」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(家康)」の三つの俳句を引いて、「あなたならどのタイプになりたいですか?」という質問をされたのである。
 小学生も高学年となればチエも付いてくるし、先生が「どんな答えをほしがっているか」くらいは見当がつく。間違っても「信長」と答える子はいなくて、たいていは秀吉か家康タイプに分かれる。内心では「でも好きなのは真田幸村なんだけど」とは決して言わないのである(NHK人形劇『真田十勇士』なんかを見てたらそりゃ秀吉のファンにも家康のファンにもなりようがない)。けどそうやって「教師の気に入るように慮って」答えた解答にどんな「教育的成果」があるんかな、と疑問に思うのは斎藤さん一人ではあるまい(まあ媚の売り方は覚えるだろうがね)。だいたいそんな「俗説」のイメージを歴史の真実であるかのように語るというのは、それこそ「歴史の捏造」ではないのだろうか。それは私も小学生の時分から疑問に思ってはいたのだが、なんだかそのあたりの現代教育、どんどん妙な方向に歪んでいっているように見える。
 思うに現代の教育界、「ゆとり」どころか「あせって」いるのだ。犯罪の低年齢化が進むにつれて、学校は何をしているんだ、子供の心をちゃんと見ているのか、などなどと突き上げられる。何か事件が起きてしまえばいったい誰の責任なのか、校長か担任か親なのか、スケープゴート捜しに奔走し、誰かの一瞬の油断が責められババを引かされる。おかげで教育界はノイローゼ寸前、これではトチ狂った先生たちによって「なんだかなあ」と言いたくなるような授業方法が生み出されても仕方がない。ともかく求められるのは「即効性のクスリ」なのだから、副作用まで考慮する余裕はなくなっているのだ。いや、もしかすると即効性すらない気休めを与えられているに過ぎない場合もあるかもしれない。結局、彼ら教師たちは、子供の心に「思いやり」と「優しさ」を取り戻すことができれば犯罪を防止することができるという極めて短絡的でノーテンキな思考しかできなくなっているのである。
 別に「世の中が悪い」と言いたいわけではないが、犯罪の低年齢化は社会の必然である。共同体がとうの昔に解体し、高度な情報化社会と化している現代においては、人間もまた一つの情報にすぎず、「ワン・オブ・ゼム」としてしか機能しない。現代では本当に必要な人間など誰一人存在していないのである。にも関わらず、学校では先生対生徒、生徒間においてさえも一人一人が互いに必要としあっているような擬似関係をムリヤリ作らされている。目端の利いた生徒なら、その欺瞞を何年も続けさせられていればいい加減で嫌気がさすのは当然で、中には堪え性なくぶち切れるガキが出てくることもあり得ようというものである。そこに「思いやり」なんてキレイゴトを投げかけるのは火に油を注ぐようなものだ。別にこんなことは私一人が語ってることじゃなくて、これまで何万編も語り尽くされてることなのだが、そういうことが分かっていてもなお「生きる力」云々のキレイゴトを語り続けなければならないところに現代教育の一番の病根があるんだろう。
 でもみんなどうして「今の教育はダメだ」とか「おかしい」とか言いながら子供を学校にやるかね。行き先を見失ってるバスと知ってて乗っかる乗客も所詮はバカだと思うけど。「だって他に交通手段がないじゃないか」と言うのなら、そもそも今の教育界を安易に批判する資格はあるまい。

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09月17日(金)
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