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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■それはそれなんだってば/『プラネットガーディアン』1〜3巻(高坂りと)/『サトラレ』4巻(佐藤マコト)
 『ブラック・ジャック』が手塚治虫の気に入らなかったらしい、ということは伝え聞いているが、『金田一耕助の冒険』については横溝正史は特に不快感を抱いてはいなかったはずだ。映画化に関して基本的に一切注文はつけない、というのが横溝正史のスタンスで、片岡千恵蔵が洋服を着て金田一耕助を演じても、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』が現代に時代を移して映像化されても、「あ、そう」ですましてきた経緯がある。「原作に沿ってほしい」気持ちがなかったわけではあるまい。そうエッセイに書いていたこともある。しかし、小説を全てそのまま映像に移すことは不可能であるし、逆に何の映画的アレンジのない映像化はたいてい失敗作になる。横溝正史はそのことを熟知していた作家であった。
 更に言えば、当時、まだドラッグに狂ってはいなかった(^o^)角川春樹は晩年の横溝正史を実の父のごとく仰いでいたし、横溝正史も、「やんちゃ」なこの若社長のバイタリティに好ましいものを感じていた。でなければ、社会派推理小説の台頭にくじけて、一端は筆を断っていた老作家が、矢継ぎ早に四長編(『仮面舞踏会』『迷路荘の惨劇』『病院坂の首縊りの家』『悪霊島』)を書き上げ、更には自作の映画化作品に4本も出演までしてしまうことがありえるだろうか(『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』『金田一耕助の冒険』『病院坂の首縊りの家』)。
 実際、山本さんが紹介しているサイトも覗いてみたが、「当時の角川映画の評価をそのまま採り入れた、自己批評」と、好意的かつ的確な批評が書かれていた。そう見るのが妥当であろう。
 まあ、あの映画が随分「乱暴な」映画であることは否めない。そこを許容できない人にとっては、「なんじゃこりゃ?」と感じるのも当然なのだが、山本さんは、激昂のあまり、当該のサイトもよく読んでおらず、事実誤認をしているのではないか、と思ったので、本当に久しぶりに書きこみをしてみることにした。
 7月14日付で私がつけたレスが以下の内容である。

> 単純なご記憶違いだとは思いますが、このあと、こんな展開があります。
> 横溝正史氏が札束をペラペラとめくると、ホンモノのおカネは一番上の一枚だけで中身は全部白紙。正史氏は「中身は薄いねえ」。頭を抱える角川春樹に向かって、追い討ちをかけるように「私はこんな映画にだけは出たくなかった」(『悪魔が来りて笛を吹く』について横溝正史が「このような恐ろしい物語だけは書きたくなかった」と語ってCMにも使われたセリフのモジリ)。コケる角川春樹。
> つまり、当時散々「カネだけかけて映画の出来はどうしょうもない」と批判されてた角川映画に対する皮肉であるわけで、横溝氏に対する悪意は大林監督の意図にはないと思います。

> (「他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる」ことについて)多分このあたりは大林監督よりもダイアローグライターのつかこうへいの趣味が出てるのだと思います。『熱海殺人事件』のくわえ煙草伝兵衛のセリフに共通するものがありますから。

> けれど、実のところ、「探偵ってのはね、一つの事件に対して、怒りや憤りを持っちゃいけないもんなんですよ。一つの殺人から、どう広がっていくだろう、そしてこの殺人がもう一つの殺人を生むんじゃないかしら、そう考えることが楽しいんですよね。」と似たようなことを原作の金田一も頻繁に語ってはいます。
> 殺人が起きるたびにワクワクし、またワクワクしてしまう自分に対して自己嫌悪を抱いて事件後失踪する、そんな行為を金田一は繰り返しています。そのあたりの「事実」を元にして、一つの「探偵論」「金田一耕助論」として語らせたのがあのセリフですから、好き嫌いは別として一つの「批評」として認めてもよいのではないでしょうか。

 これについて、今日、再び山本さんからついたレスが以下のもの。

> 記憶違いではありません。そのシーンも記憶しています。
> たとえ中身が紙だろうと、「金が欲しくてこんな映画を作ることを承諾した」かのように見せるって、ひどいんじゃないでしょうか。

> 『ねらわれた学園』でも、ラスト近くで眉村卓氏が、(いかにも映画の内容を嫌がっているかのように)机をどんどん叩くシーンがありましたっけ。

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07月15日(火)
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