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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■ある正義の死/『日本庭園の秘密』(エラリィ・クイーン)
謎を解くキーワードは「ニッポン」。そして最後の決着をつけるマクルーア博士とエラリィとの頭脳比べ。果たして勝利の女神はどちらに微笑むのか。日本人ならずとも、これだけワクワクさせるプロットを持ったミステリは滅多にない。
ところがこれが、以前読んだ創元版では(角川版は未読)、例の悪訳のせいで実につまらなかったのだ。今回の新訳と引き比べてみると、訳文を見ただけでも明らかな誤訳と思われる部分が随所にあり、時には段落を一つ飛ばして訳しているところまであった。キャラクターの描き分けをセリフで工夫することもしていないし、ともかく読みにくい。以前も書いたが、クイーンの評価がクリスティーに比べると著しく低いのは、この悪訳のせいである点、非常に大きいのではないか。
一例を挙げる。カレンを発見した時のエヴァとテリーの会話の部分である。
A〔創元版・井上勇訳/99ページ〕
「ひまがない」褐色の男は低い声でいった。「そのほうがまだましだ ―― あんたは泣いていたように見える。あちらでは何に手をつけた?」
「なんですか」
「なににさわったかというんだ。さあ、早く」
「机と」エヴァは低い、ささやくような声でいった。「窓の下の床と、おお」
「なんたるこった」
「わたし、すっかり忘れていたわ、あることを。ぴかぴか光る宝石の飾りがついた鳥の形をしたもののことを」
エヴァは、またもや、男から平手打ちをくらおうとしていると考えた。それほどに男の目は熱っぽく、狂気じみていた。「鳥、宝石。なんたることだ。よく聞くんだよ。あんたは、その口をしっかり閉じておくんだ。ぼくのいうとおりにするんだよ。泣きたければ泣くがいい。卒倒してもいい。好きなだけ醜態をさらしていい。ただ、しゃべりすぎてはいかん」
男にはよくわからなかった。鳥とは。鳥のお化けとは。「でも ――」
B〔ハヤカワ版・大庭忠男訳/109ページ〕
「時間がない」褐色の男は小声で言った。「とにかく、そのままの方がいい ―― 泣いていたように見える。寝室では、なんに手をつけた?」
「え?」
「なんにさわったんだ? 早く言え!」
「机」エヴァは、ささやき声で言った。「窓の下の床。あ!」
「なんだ?」
「忘れてたわ! あるものを。ピカピカ光る石のついた鳥を!」
エヴァはまたぶたれるのではないかと思った。それほど彼の目は怒りにもえていた。
「鳥。石。なにを言ってる! いいか。その口をあけるな。おれの言う通りにするんだ。泣きたけりゃ泣いてもいい。失神してもいい。なんでも好きなようにやっていい。ただ、あんまりしゃべるな」
男にはわかっていなかった。鳥とか、半分の鳥のことは。「でも ――」
一読して、どちらがわかりやすいか歴然としているとは思うが、いくつか注を。
まず全体的にテリーの口調がAとBとではまるで違う。テリーは下町のしがない私立探偵だから、ノーベル賞受賞学者令嬢のエヴァとは立場がまるで違うのである。粗野で乱暴なBの方がずっとキャラクター性が表されているし、一人称だって、「ぼく」より「おれ」のほうがずっと自然だ。
Aのエヴァの「なんですか」は、多分、“What?”の訳だろうが、死体発見の現場で相当焦ってるだろうに、エヴァも随分のんびりした聞き方をしているものである。Bの「え?」のほうが簡潔で正解。
Aのテリーの「なんたるこった」は明らかに誤訳。エヴァはまだ何に触ってしまったのか、言い終わっていない。なのにもう驚くなんて、テリー、おまえはテレパスか。「なんだ?」と問いかけているBの方が正解だろう。
エヴァが触ってしまった「鳥」というのは、この段階では何のことだか分らないが、実は凶器に使われたと思われるハサミのことである。日本製で、ハサミの両刃が鶴のクチバシに模されていて、それのネジが取れて片方だけになっていたのである。
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06月13日(金)
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