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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■彼、行くは星の大海/『フルーツバスケット』11巻(高屋奈月)/『てんしのトッチオ』(鳥山明)
もちろんヒロインの透は、ただの純情可憐なオトメではなく、なにか心に「闇」を持っていそうではある。けれど、最終的に十二支のみんなが、慊人や夾も含めて透に呪いを解かれ、救われるのだとしたら、それはただの宗教画にしかならないのではないか。透をマグダラのマリヤにすることは、すなわち、そこで語られる物語が「神話」に過ぎなくなることであり、結果として「人間」のドラマを喪失させることになる。
慊人は「神」を騙る。この「神」は、もちろん否定されるべき神だ。しかし、透は慊人を否定することなく、「救い」のみを考える。「総てから解放された皆さんが心から泣き心から笑える日が来るのならば罰が本当に下るとしても呪いを解きたい」。明かにこれはサクリファイスである。ここに「罰」の概念を持ち出してきさえしなければ、素直に感動できるところなんだけれどもなあ。
既にキャラクター出しすぎて、描き分けが難しくなって来てるし、ストーリー構成もあっちに行ったりこっちに行ったり。作品全体の魅力が随分薄れてきてるんだけれど、大地さんに続きをアニメ化してもらうためにも、失速しないで早いうちに完結させてほしいものである。……長引かせると破綻すると思うぞ、このマンガも明らかに「エヴァンゲリオンチルドレン」なんだから。
とりやまあきら さく・え『てんしのトッチオ』(集英社・1785円)。
帯に「鳥山明『絵本』に初挑戦!!!」と麗々しく描かれてるけれど、どこの本屋に行っても置いてあるのはコミック本コーナーで絵本の棚には並んでない。仮に絵本のコーナーに置いたとしても、さて、これが長く読み継がれるものになるかどうか。
絵本の世界は超々ロングセラーがザラにあることである。我々が子供のころに読んだことのある『ぐりとぐら』や『だるまちゃんとてんぐちゃん』なんかが、未だに絵本コーナーの真正面に並べられてたりしてるのである。もちろんその間も新作は数限りなく描き継がれているのだが、その淘汰の速さも尋常ではない。絵本は単価がバカ高いから、子供が「買って」と言ってもそう簡単には買ってやれない。必然的に、「親」が面白いと思ったもの、子供に読ませたいものばかりが残っていくことになる。絵本の歴史の中でも「進化」がないわけではないのだが、やはり基本的に絵本の世界は極めて保守的なのである。
で、この『てんしのトッチオ』だが中途半端に保守的なのだ。鳥山明は子供っぽいから絵本に向いてるんじゃないかと思ってる人がいるかもしれないが、ことギャグに関する限り、子供っぽいんじゃなくて下らないだけである。視点はやっぱりオトナのものだ。
トッチオが地上の動物たちの願い事をかなえてあげようとして、全く役に立たない、というのはまあマンガでも絵本でも定番の展開だけれど、ハムスターにスクーターを出してやるとか、干上がった沼にペットボトルを出してやるとか、羽を怪我したペリカンに紙飛行機を出してやるとか、アイデアが陳腐を通りこしてどうしようもないのである。「とりやまあきら」の名前が無ければ、ボツになっているに決まっている。
最後にトッチオがホントにみんなの役に立つ、という結末も定番だけれど、別にトッチオがこれからも失敗しないという保障ができたわけではない。全然、物語としてのカタルシスも無いのである。
作者本人は一所懸命描いたつもりかもしれないけれど、絵本のレベルとしては5点だ。世の中にどれだけ工夫を凝らした、創意に満ちた、斬新かつ普遍的な絵本があまたあるか、それを知ってから描いてほしかったものだね。同じマンガ家の描いた絵本なら、絵本の体裁を無視してただの大型マンガ本として描かれている唐沢なをきの『バラバラくん』のほうが、「別に絵本の描き方なんて知らんも〜ん」って態度が潔くってよっぽどいい。
みんな、『トッチオ』買うカネがあったら『バラバラくん』を買って子供に与えてオタク教育の萌芽とするのだ。マジでその方がいいと思うぞ。(2003.3.28)
02月27日(木)
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