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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■閃光の意味は/アニメ『明日のナージャ』第1回/『グーグーだって猫である』2巻(大島弓子)
この「おかしさ」に気づいてない日本人が圧倒的に多いってのはなんなんだろうね?
何が言いたいかっていうと、「クリスチャン」に「冥福」は違うだろうってことなんですよ。「神の御許」は「冥土」か?(-_-;)。
単純ミスだし、一般的に「死を悼む」という意味で使ってるだけだから、それくらい許してあげなよ、という言い分もあろうが、それがただの言い訳に過ぎないことも事実だ。我々日本人の宗教に関する感覚はあまりにも鈍い。もしもクリスチャンが「許せない」って言い出したら、これ、充分アウトな発言なのだ(まあ、日本にお住まいのクリスチャンのみなさま方は博愛主義者だから文句はつけますまいが)。
こういう当たり前の指摘が全くできなくなっている状況って、結局は日本人の「意識」ってものの正体がどんなものかってことを象徴してるんである。
まあね〜、宇宙マニアな人を除いたらさ、この件に関してあんまり熱く語ったってしょうがないと思うよ。
報道でもやたら言ってたけどさ、これはどうやら「アメリカの威信の失墜」って問題らしいから。宇宙開発がどうの、人類の未来がどうのって話じゃないそうですから。
唐沢俊一さんの裏モノ日記で、ちょいと気になる記事を見つけた。と言ってもたいしたことじゃないんで、「どんなツッコミする気なのか」とか期待しないように。
1月31日の冒頭に、『三省堂国語辞典』を読んだときの、「“尖む”と書いて“こすむ”と読む語がある、などというのも初めて知った。碁をやる人には常識なのだろうが、前に打った自分の石からななめの方角に打つこと、なのだそうである。今や広辞苑にも記載されていない」と書いてあるくだりである。
もちろん、碁をやってなくても今やジャンプ読者にはこの語は「常識」になっているだろう。もちろん『ヒカルの碁』のヒットのためである。
ああ、唐沢さんは『ヒカルの碁』を読んでいないんだな、とこれで気づいたのだが、別に「なんであんな面白いマンガを唐沢さんともあろうものが読んでないんだ!」と怒りたいわけではない(どんなヒット作だって読む読まないは本人の自由であるし、唐沢さんの批評対象のフィールドと、『ヒカ碁』がかけ離れていることも当然承知している)。
昨日もツラツラと考えていた「オタクの浸透と拡散」のことをやはり思い返してしまった、ということなのである。
「このマンガを読んでなくて、マンガが語れるか」というものがかつてはあった。いや、マンガに限らず、小説だって映画だって、そういうものは「あった」のである。しかし、年月が膨大な作品群を生み出していく過程で、少しは見るべきものとそうでないものとのセレクションが行われていったかというと、必ずしもそうはなっていないのである。実際にはどのジャンルにおいても、学ぶべき「基礎教養」が増殖するばかりになっているのが現実である。
好き嫌いは別として、マンガ史において、手塚治虫や梶原一騎を読まないでモノが語れはしないだろう、ということは誰しも見当がつく。しかし、彼らが亡くなって随分時間が経った。単行本の復刊はあるものの、雑誌連載は当然ない。連載されているマンガの単行本しか読まない買わない、という若い人はもうゴマンといるのだ。
マンガを文化としてとらえようと思うなら、作品だけでなく、その読者層の特徴までも含めて見て行かねばならない。そうなると、「『ワンピース』や『テニプリ』しか読んでいない人々」をも「マンガファン」と呼ばねばならなくなる。そんなのは私らの世代ならば即座に「てめーら、それだけがマンガなんて思うなよ、マンガの読み方一つわかってねーじゃん、もっとほかのマンガ読め」と怒鳴りつけたくなるのだが、では、彼らに我々の世代が読んできたマンガを全て「基礎教養」として読め、と強制することができるのか? と自問したら、そりゃ無理だよってことになるのも分っているのである。
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02月02日(日)
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