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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■言語作用としての2ちゃんジャーゴン/『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(増田龍治・増田若子)ほか
 2ちゃんねる用語の中には、通常の会話で使われることもあり、必ずしもジャーゴンとは言い切れないが、やたら頻度数の高いもの、というものもある。
 例えば、「〜ですが、何か?」という聞きかた。一見、疑問形ではあるが、これは相手に解答などを求めてはいない。「それがどうした、オレはオマエの言うことになんか興味ねえんだよ」という、会話に対する拒絶であって、だからこのコトバを真に受けて、誠実に対応するつもりで答えてみたところで、更に嘲われるか無視されるかどちらかである。「あほが見〜る〜、ブタのけ〜つ〜」ってことだね。
 こういう「拒絶のためのジャーゴン」が夥しく使われる空間に対して、「コミュニティ」などという呼称は、本来適切ではない。2ちゃんねるの「掲示板」とは、コミュニケーションのためではなく、あくまで「匿名性」に自己の存在を隠した「言いっぱなし」の「便所の落書き」として機能しているのである。
 コテハン(固定ハンドルネーム)を使ってたって、なりすまし、自作自演の多い2ちゃんじゃ、自分自身の証明になんかならない。昔、夏目房之介さんや唐沢俊一さんが2ちゃんに書きこんでたときには、それが自分であることの証明のために、わざわざ自分の日記やエッセイの中でそのことに触れなければならなかったのである。ましてやただの無名人が自分自身を主張しようとするなら、2ちゃんねるに書きこみをすることは全くの逆効果であろう。
 重ねて言うが、2ちゃんねるの「効用」は、新しい形のコミュニティを作っているということではない。
 その真逆で、誰もが同じコトバ遣いで、誰もが似たような言い回しで、誰とも知られずに心の底に溜まったどす黒い欲望だの憎悪だの偏見だのを撒き散らしてスッキリさせられるからこそ、2ちゃんねるはあそこまで巨大化していったのだ。
 そこに、表には現れにくいけれども、実は「大衆に“共通している”」時代の捉え方、時代の雰囲気、文化の底流にあるものを見出し、分析し、研究することが可能になる。たとえそれが醜い差別意識であろうとも、そこから目を逸らしてその国の文化を捉えることはできない。2ちゃんねるはまさしく我々の心の奥底を映し出す鏡なのである。
 だから私は、2ちゃんねるの存在を否定はしない。しないんだけれど、たまに実生活やごく普通のサイトで、「2ちゃんねらー」であることのアイデンティティを主張される人に出会ってしまうと、極めて困惑してしまうのである。本人だってことが特定されたら、名誉毀損で犯罪者ってことになる危険があるってことに気がつかんのかね。
 昔、あるチャットで、「私、2ちゃんねらーですけど、それが何か?」なんて言われたことあるけど、「あなたバカですね」なんて返事してほしいのか(^_^;)。

 ネットの恐ろしさってのは、たとえ個人のホームページであっても、それが巨大化していけば「2ちゃんねる的要素」が生まれてくる点である。つまり、「荒らし」が増えるのだね。典型的な例が山本弘さんの「SF秘密基地」だろうが、そこではやはり、管理の仕方をいかにするかっていう、管理者の「覚悟」が問われることになるのだ。
 ネットが新しい形のコミュニケーションを作りあげていく可能性については、大いに期待したい。実際、私の場合を考えてみても、ネットいうものがなければ、まず間違いなくAIQやオタクアミーゴスの先生方ともお近づきになれなかったし、もちろん、見知らぬ人たちから私の考えていることに対して、賛同、批判、罵倒を受けたり、知り合いの信頼、友情、裏切りに会ったりして、職場とトラブルを起こしたりすることもなかった(^_^;)。
 もちろん、それは全て私に「考える」きっかけを与えてくれた。
 その考えたことがまた日記にフィードバックされていく。おかげで日記がどんどん長くなる(ー∇ー;)。
 ネットに妙な夢を見るのは危険だと思う。けれどネットを通して、見えない相手の顔を想像して行くことが、越えられない人と人との心の壁に蟻の穴の一つくらい開けられやしないかと、ちょっとくらいは夢想してみたくなるのである。でもそのためにはまず「現実」を客観視する目を持たないとね。



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01月17日(金)
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